木を植え、削り、波に乗る—— 。倉橋潤が手がける「SURFERS COUNTRY」サーフボードは、自然と対話する芸術作品だ。理想を追い求め辿り着いた独自の哲学と、シングルフィンに宿る究極の美を探る。
ゴールドコーストの南、緑豊かなノーザンリバーズの山中で、倉橋潤は家族5人と愛犬2匹と暮らしている。山の斜面を切り開いたような場所に建つ母屋の裏手には、小さな小屋が佇む。ここが、彼が主宰するサーフボードブランド「SURFERS COUNTRY」のシェイピングベイだ。
幼い頃からモノづくりが好きだった倉橋は大学でデザインを学び、製造業に進むことを考えていた。しかし、世の中にモノが溢れすぎていることに疑問を抱き、大量生産の世界に自分の理想が見出せないと感じた。そして日本飛び出し、世界を見てみようとバックパッカーの旅に出る。
スケートボード、スノーボード、そして18歳から始めたサーフィン。横乗りスポーツを愛する倉橋は、24歳のときリーフブレイクでのサ―フィンを求めてトンガへ渡る。そこに1年半ほど滞在するなかで、あるオーストラリア人の友人宅を訪れた際、壁にアートのように飾られたサーフボードを目にして衝撃を受ける。
「サーフボードがアートになるんだ!」。この気づきが、彼の人生を大きく動かした。
ボードつくりへの情熱が芽生えた倉橋は、26歳でワーキングホリデーのビザを取得し、オーストラリアへ。バーレーヘッズのボードファクトリーの門を叩き、量産ボードの製造やディック・ヴァン・ストラーレンのグラッシング、ブラザーズ・ニールセンなどローカルシェイパーのボード制作に携わる。そこでの経験を重ね、ついには工場からビザを支給され、永住権を取得。その後、知人からグラッシング・ファクトリーを引き継ぎ、自ら運営するまでに至る。そして、30歳で自身のブランド「SURFERS COUNTRY」を立ち上げた。モノづくりの道を一時諦めかけた彼だったが、このとき夢が現実となった。
シェイプからグラッシングまで、ボード制作のすべての工程を手がけるシェイパーは稀にいるが、倉橋はフィンはもちろん、使用する素材まで自らつくる。
「デイル・ベルジーやグレッグ・ノールなど、’60年代、’70年代のシェイパーって、すべてひとりでボードをつくっていました。彼らと一緒です。フォームは自分で発泡することができないので、木を選びました」
その理由は自然との接点を作りたかったから。しかも倉橋の場合は、苗を植えるところから始まる。使用している木はポロニア(桐)。成長が早く、軽くて密度が高く、加工しやすいのでサーフボードに最適だと言う。庭にある大きな大木を指さすと、「あれは娘が生まれたときに植えた記念樹です。もうすぐ8年になるので、そろそろ使えますね」。もちろんこの大木も桐である。
ボードラックには、素材もカタチも異なる多種多様なボードが並ぶ。なかでもディック・ブルーワーをオマージュした10’6”のガンは圧巻
シェイピングベイの入り口には、丸太を切断する木工機材のソーミルや、伐採した木を根本から掘り起こすユンボといった、サーフボード制作の現場とは思えない機材が並ぶ。ウッドボードといっても様々な種類・製造工程があるが、倉橋の工程は木材を薄くカットし、パネル状に繋ぎ合わせてアウトラインに沿っカット。バキュームポンプで真空状態にしてフォームの上に固定し、トップとボトムに貼り付ける。レールには細くカットした木材を貼り、フィンも木材パネルを積層して制作。バイオ由来のエポキシでグラッシングすることで環境負荷を最小限に抑えている。余った木片や削りカスは自然由来なので、環境負荷はゼロである。
室内には数えられない程のテンプレートが保管されており、中にはレジェンドシェイパーのものも。そのまま使用することもあれば、アレンジを加えることも。その時つくりたいボードのイメージで使い分けているそうだ。さらにフィンのテンプレートも60種類以上あり、ボブ・シモンズやボブ・ブラウンのオリジナルも含まれていた。
愛娘のアンちゃん(8歳)と記念樹の桐の前で。今後は外来種で爆発的に増えている楠の木の使用を考えているそう
「ウッドボードづくりで影響を受けたのは、グレッグ・ノールとトム・ウェグナーです。映画『ONE CALIFORNIA DAY』のグレッグは衝撃的でした。フォームのボ―ドはたくさんのシェイパーから影響を受けていますが、一番はミジェット・ファレリーですね。彼のオリジナルボードはこれまで何本も見てきましたが、ちょっとハルっぽくて、ロッカーバランスが抜群にいいです。ミジェットはロングボードのイメージが強いですが、個人的には8フィート前後のミッドレングスがお気に入りです。彼はライディングもスタイリッシュですしね。その他ディック・ヴァン・ストラーレンからは、ハンドシェイプにかける情熱、グラッシングを2年ほど任せてくれたアンドリュー・キッドマンからは、ボードデザインの多様性とオリジナリティの価値、SUPとフォイルボードのスペシャリストであるデイル・チャップマンからは、ボード制作の全工程を一人でこなす、クラフトマンシップの影響を受けました。
シェイプ歴18年、これまで500本以上削ってきた倉橋。スラスターは削らず、’60年代後半から’70年代前半のボリュームがあり、波のパワーレンジを広く使えるボードを好む。フォームはPU、EPS、ウッドを使い、5フィート台のショートボードから10フィートオーバーのガンまで削る。アウトラインもフィンも自由自在。そんな倉橋が最もこだわっているのはシングルフィンだ。
「シングルフィンはラインが究極にシンプル! トリムでもターンでも、理想のラインが決まったときの感覚は格別です。後ろ足でしっかり踏み込めばドライブし、スピードも早い。さらに、フロント寄りに乗ることで異なる感覚も楽しめます」
掘れた波でもめくられないよう、ノーズはハルエントリーに。テイクオフ時に刺さらず、自然にレールが入るのも大きな利点だ。レングスが8フィートを超えると、レールにはチャイムを施し、より波に食いつくよう調整している。また、シングルフィンのフィーリングを持ちながら、マニューバー性能も兼ね備えたボンザーもお気に入り。特に好むのは5フィンのボンザー。3フィンだとラインが太く長くなるが、5フィンならそこに縦の動きが生まれ、トップで深くえぐれるようにターンができる。その感覚がたまらないと笑う。
ゴールドコーストの南に位置するアウターリーフでパンデミック中に撮影した一枚 ©childsphotos
こだわりや信念が強く、近寄り難い人かと思えばその真逆で、とてもフレンドリーでボードの話をしているときは子供のように目を輝かせている。そんな温厚な人柄も手伝い、彼のボードを求めて多くの人が集まってきている。オージーはもとより過去にはワーホリで渡豪していた斎藤久元プロも。現在は湘南出身のフリーサーファー玉野聖七にボードを提供し、その乗り味をフィードバックしてもらっている。撮影した日もちょうど玉野が訪れていて、気がつけばふたりでボード談義。ちょうどシングルフィンの話になったので、玉野にもシングルフィンの魅力を聞いてみた。
「一番の魅力は、グライドとトリムです。感覚的ですが、波とダイレクトに繋がっているような感じがします。ツインはルースだし、トライだとアグレッシブすぎるけど、シングルはシンプル。ただターンしてトリムして、またターンしてトリムという繰り返し。潤さんのボード(シングルフィン)はそれを体現でき、乗っていて気持ちがいいです」
倉橋のシングルフィンのボトムは、ハルエントリーからのVee、最後はフラットというのが基本。最高のフィーリングを生み出すボトム形状を、確かめるように何度も触っていた。
ワーホリで渡豪中(撮影時)の玉野聖七。ショートからロングまでスタイリッシュに乗りこなす
28歳からシェイプを始め、そろそろ19年目を迎える。これまではその人にあったボードをつくるために、保有しているボードの種類、好きなアウトライン、目指すスタイル、普段入っているポイントの波質、さらにはライフスタイルまでヒアリングし、可能であれば一緒にサーフィンもしてきた。時間と手間がかかる作業だが、「カスタムオーダーとはそういうこと」と言い切る。
「今はライダーとコミュニケーションをとり、もっとクリエイトしていきたいと思っています」
ブランドを大きくするとか、販売本数を増やすといった商業的な野望は一切なく、ただ自分が最高と思えるサーフボードをつくり続けていきたいと語る倉橋。ショップへの卸はもとより、オーダーの本数も制限している。彼のボードは今後どこまで進化していくのか? その行き着く先まで追い続けたいと思った。
photography _ MACHIO
>>SALT...#04から抜粋。続きは誌面でご覧ください
「SALT…Magazine #04」 ¥3300
サーフィン、暮らし、生き方、そして思考をより本質的なものへと回帰。シンプルで持続可能な在り方を追求することこそが、真の豊かさにつながる。
<Contents>
⚪︎Burleigh Single Fin Festival
⚪︎未知なる領域へ̶̶ サーフィンの新境地
⚪︎シングルフィンを愛する10人のインタビュー
⚪︎STILL AND TRUE
⚪︎笹子夏輝 ~カリフォルニア・スタイル巡礼の旅
⚪︎サーフィンによるマインドセットのススメ
⚪︎Stories Behind the Waves
⚪︎今を生きるサーファーたちのダイアログ
⚪︎世界の果て、南ポルトガル・サグレス
⚪︎Column _ Miyu Fukada
オンラインストアにて発売中!
TAG #BACK TO BASIC BACK TO SINGLE FIN#JUN KURAHASHI#SALT...#04#SURFERS COUNTRY#シングルフィン
シェイプ歴60 年を超えるリビング・レジェンド、ディック・ヴァン・ストラーレン。御年80 歳を迎えた今も、頭の中はシェイプのことでいっぱいだ。“そのときのフィーリングで削る”。それ以上でも、それ以下でもない。
「最近身体を壊して、あまり調子が良くないんだ」
辛さを隠しながら、笑顔で出迎えてくれたディック・ヴァン・ストラーレン。握手した手は、これまで数えきれないほどのボードを削ってきた職人の手であり、温かく、大きかった。ディックは第二次世界対戦中にオランダで生まれ、8歳のときにボートでシドニーにやってきた。父親はシェフをしており、自身も「将来は手を使って何かを作る仕事に就きたい」と漠然と考えていた。1956年、メルボルンオリンピックの際、アメリカのライフガードチームの一員としてグレッグ・ノールをはじめとする数名のサーファーがオーストラリアに渡り、ベルズなどでサーフィンのデモンストレーションを行った。彼らのライディングを目の当たりにしたディックは、サーフィンに強く惹かれ、18歳でシェイプを始めるようになった。彼が最初に削ったボードは、今でもリビングの一角に大切に飾られている。
ディックの思考は、常に全体のバランスを見る、“ホリスティック”な考え方である。物事を切り分けるのではなく、全体を俯瞰して繋がりを考えながらカタチ作る。それはボード作りにも顕著に表れており、カスタマーからの細かなリクエストには応じず、全体の調和、すなわち“トーラルバランス”を最優先して仕上げる。それは長さであっても然り。但し相手を深く理解した上での判断であり、決してエゴではない。出来上がったボードがオーダーと異なることに最初は戸惑うカスタマーも、波に乗った瞬間にディックが正解であることを確信する。
この“トータルな視点”は、彼のライフスタイル全般にも及ぶ。健康面についても、食事、運動、環境、メンタルを一体なものとして捉えている。毎朝4時半に起床し、呼吸を整え、ヨガや瞑想、タイチ(太極拳)を行った後、海へ向かう。凍えるような寒い日も、雨の日もフィンを持って海に入り、ひとり泳ぐ。現在はサーフィンをしていないが、海に入ると気持ちが落ち着き、マインドセットができるそうだ。
ディックの名を一躍世界に知らしめたのは、2004年にジェフ・マッコイが制作したBillabongのフィルム『Blue Horizon』だった。作中では、アンディ・アイアンと共にフィーチャーされたデイブ・ラスタビッチが、驚異的なスピードとトライフィンでは描けないカービングを披露し、観る者に衝撃を与えた。そのときにデイブ乗っていたのが、ディックが手掛けたツインフィン「Rocket Fish」だった。その後、デイブのために開発した「Hydro Hull Fish」は、デッキとボトムに深いコンケーブを施し、パドリングの安定性とさらなる加速性を実現した。現在のデイブのスタイルを作り上げたのは、間違いなくディックが大きく影響している。デザインだけでなく素材についても革新的なアプローチを行い、カーボンファイバーやエポキシ樹脂などを積極的に採用した。
デイブ・ラスタビッチから送られてきた子供との写真。デイブが14歳のときにバーレーヘッズで出会い、それからずっと師弟関係が続いている
ディックに、シングルフィンについて尋ねると、「昔はよく削っていたけど、今はツインフィンの方が好み」と即答。それではと、シェイプ理論や哲学について問うと、「そんなものはない。そのときに感じたまま削っているだけ」と一蹴。これまでに削ってきたボードの本数やモデル名、テンプレートの数についても「数字に意味はない、気にするな」と一笑に付した。ただロゴに関しては愛着があるようで、ウィングが印象的なロゴは奥さんがデザインており、2匹のコブラは守り神、イン・アンド・ヤンはバランス、ハートは愛、ウィングは自由を表していると詳しく教えてくれた。
「わたしは、“マジック・プレゼント”という言葉を気に入っている。その意味は、今にフォーカスする。過去のことや未来のことなんかどうでもいい。大切なのは、今この瞬間だ」
そう言うと、ディックは今まで見せなかった笑顔を浮かべ、大きく笑った。
photography : MACHIO
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⚪︎未知なる領域へ̶̶ サーフィンの新境地
⚪︎シングルフィンを愛する10人のインタビュー
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⚪︎笹子夏輝 ~カリフォルニア・スタイル巡礼の旅
⚪︎サーフィンによるマインドセットのススメ
⚪︎Stories Behind the Waves
⚪︎今を生きるサーファーたちのダイアログ
⚪︎世界の果て、南ポルトガル・サグレス
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TAG #BACK TO BASIC BACK TO SINGLE FIN#SALT...#04#シングルフィン#ディック・ヴァン・ストラーレン
フィッシュ、ツイン、フィンレス、さらに’70 年代のボードをレストアしてオルタナティブームを創った影の立役者、デレク・ハインド。その基礎は、リーシュなき時代のシングルフィンから学んでいる。
1971年から1974年、この時代はシングルフィンが主流で、サーファーはそれぞれの地元のビーチのルールに従っていた。ハワイ・ノースショアのサンセットとパイプラインでは、誰が一番奥に陣取れるかが重要視され、同じようにオーストラリアのノースナラビーンやニューポートのピークでも、厳格に順位が存在していた。サーファーは地元のエチケットを学ぶ必要があり、ラインナップのプロトコルは厳守されていた。それは現在も連綿と受け継がれている。この時代、誰もレッグロープを使用していなかった。レッグロープを使用することは、サーファーではないことを認めることだった。サーファーは泳法、離岸流の見極め方、ボードを守るための素早い動きを学び、波に乗る際には海とラインナップに敬意を払っていた。
シングルフィンは信頼性を重視して作り上げられた。限界を超えずに、いかにうまく波を乗り切るか。例外はナラビーンのコール・スミスとサイモン・アンダーソンだ。彼らはすべての波に全力で挑み、ワイプアウトすることはなかった。サーフィンは、スポーツというよりは芸術的な解釈の行為で、それは今も変わらない。暴力的な攻撃の儀式というよりは、生き残るためのダンスであり、スタイルがすべてであった。安定したシングルフィンの信頼性を出発点として波に乗る。ワイデストポイントはセンターから4インチ上、最も厚い場所は胸の下、ノーズからテールまでのフォイルは徐々に薄くなっていく。技術が高ければ、ノーズとテールのリフトは低くなる。また、スタイルがソウルフルであればあるほど全体のロッカーは抑えられ、テリー・フィッツジェラルドのハイライントリムは、その象徴だった。
’71年から’74年にかけて、サーフボード市場は二極化していた。自宅の裏庭でボードを作るクラフトマンたちは、地元のアイデンティティを守る役割を果たし、大手メーカーはより広いマーケットと競技サーファーに対応していた。当時14歳から17歳の時期にあたる私は、ニューポートビーチで育ち、平均的なサーファーだった。しかし、周囲には偉大なサーファーがたくさんいた。北のアバロンとホエールビーチには、ナット・ヤングとミジェット・ファレリーが率いるスタイルの巨匠、南のナラビーンとディーワイには、コール・スミス、マーク・ウォーレン、ダッパ・オリバーといったアグレッシブなサーファーがいた。当時のラインナップは混雑していたが、レッグロープがなかったためサーファーはボードを守るために泳ぎ、波を共有していた。シングルフィンは岩にぶつかっても壊れないよう、6オンスのクロスをデッキに2枚、ボトムに1枚グラッシングしており、重なり合うレールは最大の強度を誇っていた。ロッカーはフラットで、テー
ルはノーズのリフトの約半分というのがベース。特にブルックベールで生産された高品質なボードは、多くのサーファーの憧れだった。’71年から’72年にかけて、ファレリー・サーフボードは地球上で最も美しいボードをつくり、翌’73 年から’74 年にかけては、ホットバタード・サーフボードが、マーティン・ワーティンソンの幻想的なエアブラシを施した、芸術品のようなボードを発表した。私のような子供は、中古ボードを買うか、裏庭で自作するという選択肢しかなかった。ファレリーやホット・バタードなどの大手レーベルよりもはるかに安く作る裏庭の業者は、サーファーを地元で育てる上で重要な役割を果たした。1つのビーチに、1つのアイデンティティが必要だった。裏庭の
ボードは、グロメッツの信頼性、つまり地元の海でサーフィンするチケットが与えられたようなもの。裏庭で素晴らしいボードを削っていたティミー・ロジャースは、アバロンの若者たちから熱烈な支持を受けていた。私が初めて彼のボードを手に入れたのは16歳のときで、6フィート4インチのダウンレールのシングルフィンだったと、はっきり覚えている。ティミーは私と同じ通りに住んでいた。学校から帰ると彼のシェイピングベイを訪れ、海にもよく一緒に行った。岩の前でも波から逃げないこと、大切なボードに向かって泳ぐことなど、サーフィンに必要なことをたくさん教えてくれた。
シングルフィンは波のクリティカルゾーンに入ると安定する。ナイジェル・コーツはリトルアバロンの王者だった。彼のスタイルは、リノ・アベリラとナット・ヤングを融合させたもので、ボードを失うことなく、スタイリッシュにストールして「スロット」する。1975年にレッグロープが登場したことで、ワイプアウトしてもボードを失うリスクがなくなり、その結果コアサーフィンは終焉を迎えた。同時に、レッグロープの普及はシングルフィンの終わりも意味していた。もはやボードの安定性が最優先でなくなったのだ。1975年の終わり、私は幸運にもショーン・トムソンがレッグロープなしで、サーフィンするのを目の当たりにした。その日はクローズ状態の荒れ狂う海だったが、彼はシングルフィンで入水。前足でボードをダンパーの壁に押し込み、後方へと抜けていく。その動きは、まさに芸術だった。しかし、それは今や時代とともに失われてしまった技術である。
このようにして、シングルフィンに乗るサーファーは姿を消した。ツインフィンに乗った不運なサーファーは、サイモン・アンダーソンだった。彼は体が大きく、ツインフィン向きの軽量なサーファーたちにワールドツアーで苦戦を強いられていた。ツインフィン・ライダーたちは波の上を踊るように滑り、シングルフィンに乗るサイモンを圧倒して次々と高得点を叩き出した。彼は後ろ足でボードをコントロールするサーフィンをしていたため、ツインフィンのように前足重心で乗るボードを上手く操ることができなかった。その結果、シングルフィンの安定とツインフィンのスピードを組み合わせた「スラスター」が生み出されたのである。
2025年、私はバイロンベイのザ・パスでサーフィンをしている。ここに住み、夜明けとともにパドルアウトする。運が良ければ、大勢のサーファーが集まる前にいい波に乗ることもある。ただ、彼らはほとんどがビジターで、レッグロープに縛られた野蛮人のように振舞う。正直うんざりしている。
かつて、レッグロープのないシングルフィンの時代、ディープなポジションでサーフィンしていたのは、わずか5人ほどだった。彼らは皆、シングルフィンがもたらす繊細な感覚を極めた、地元の達人だった。私が見たシングルフィンでの最も鮮烈なライディングは、ビクトリアで開催された世界選手権の決勝で、テリー・フィッツジェラルドが見せた一本だった。波は6フィート。エクスプレス・ポイントと呼ばれるリーフで、ホローな波が炸裂していた。テリーはフルスピードで最速セクションを抜けようとしたが、目の前でチューブが砕け散り、ワイプアウト。彼のボードは波のフェイスから飛ばされ、30ヤード先のクライマーに向かっていた。しかし、テリーは慌てることなく、仰向けのままボディサーフィンをし、フォームの中でカットバックしてボードをキャッチしたのだ。あの時代のサーファーは誰も個性的で、シルエットだけで誰だか分かった。今でもサーフィンにおいて重要なのは個性である。’70年代の写真や映像を観れば、「上手い下手」ではなく「好きか嫌い」がハッキリするだろう。それが個性で、サーフィンの本質である。
デレク・ハインド
1957年、シドニー出身。11歳でサーフィンを始めるがプロを目指さず、シドニー大学経済学部で博士号を取得。同年プロサーキットに参戦。1980年南アフリカの試合中に事故で片目デレク・ハインド を失うも、翌年ランキングを7位に上げて引退。
photography : Aition text _ Derek Hynd translation _ Tadashi Yaguchi
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前編・後編と2回に渡って特集した「Burleigh Single Fin Festival 2025」。コンテストに出場した中村拓久未と安室丈は、これまでも大会やトレーニング、撮影など数えきれないほどオーストラリアを訪れてきた。今回もコンテスト出場というミッションはあったものの、いつものストイックな旅とは異なり、多くの出会いと学びがあった。ここでは、ふたりの旅の様子を紹介していく。
コンテストの2日前にオーストラリア入りし、普段なかなか乗る機会がないシングルフィンの練習を行ったふたり。拓久未は日本から持参したLightning Boltのショートボードを、丈はSurfers Countryのミッドレングスを借り、それぞれのボードの特性を確かめながら丁寧に乗り込んだ。「シングルフィンは無理に動かそうとしてもダメだね」と、2人は口を揃え、「でも、グライド感が最高に気持ちいい!」と笑顔を見せた。“ボードを無理にコントロールするのではなく、波に調和するように乗る”。トップサーファーらしく、彼らはすぐにボードの特性をつかみ、コンテストに向けて調整を進めた。
コンテスト前日。「せっかくバーレーに来たのだから!」と、2人はバーレーヘッズに本社を構えるビラボンのオフィスを訪れ、スタッフの案内でオフィスツアーを体験した。「Burleigh Single Fin Festival」のメインスポンサーを長年務める理由も、この地への深い愛情によるものだ。
ビーチからクルマで5分、国道沿いの大きな広葉樹に囲まれたエントランスを抜けると、まるでリゾートホテルのような建物が現れる。ここが1973年の創業以来、サーフシーンを牽引し続けるビラボンの1号店であり、裏手に本社が併設されている。因みに、ブランド名がアボリジニの言葉で「大きな水溜まり」に由来することは、あまり知られていない。今から半世紀以上前、創業者ゴードン・マーチャントが自宅アパートで作ったボードショーツからブランドが興り、瞬く間に世界No.1ブランドへと成長したビラボン。ライフスタイル、コンペティション、カルチャー、コミュニティ、環境保護まで幅広くサポートする姿に、グローバルブランドとしての矜持を感じる。
高い天井と重厚な造りの建物。真鍮製のサーフボードのオブジェを横目に通路を進むと、写真やアート、広告、ポスター、映画のフライヤー、サーフトランクスにアパレル、歴代ライダーのサーフボードが飾られ、まるでミュージアムのような雰囲気。特に2人が目を奪われたのはミュージシャンとのコラボシリーズで、額装されたMETALICA、FOO FIGHTERS、RED HOT CHILI PEPPERSのトランクスを懐かしそうに眺めていた。もう一つ興味深かったのが、会議室に付けられた名称。「Occy Room」と「Billabong Pro Room」があり、それぞれオッキーとビラボンプロに関するポスターや資料が、壁一面を覆っていた。初対面のスタッフがほとんどだったが、かつて選手として活躍していたスタッフもいて、再会を喜ぶ場面もあった。一通り見終わった2人は、新作やサンプル品などたくさんのお土産を手に、隣接する店舗へ。日本では見られない広々とした空間には全アイテムがラインナップし、オーストラリアのローカルバンドとのコラボ商品など、レアアイテムも並ぶ。見上げるとライダーのポートレートが飾られており、そのセンターにはアンディ・アイアンの姿があった。
大会を通じてシングルフィンに興味を持ち、サーフカルチャーの奥深さを実感した2人。大会翌日、より深くサーフィンの歴史を学ぶため、カランビンにあるサーフィンミュージアム「SURF WORLD」へ向かった。2010年にオープンしたSURF WORLDは、クイーンズランド州唯一のサーフィン博物館で、オーストラリアはもとより世界最大級の規模を誇る。設立にはオーストラリア・サーフィン界の先駆者であり、シェイパーとして活躍したジョー・ラーキンが大きく貢献し、彼の逝去後は元プロサーファーのピーター・ハリスがパトロンを務めている。館内では、1900年から2000年までのサーフィンの歴史を年代ごとに紹介。さらに、重要人物や大会、映画、カメラ、ウクレレなど、様々なテーマに沿った展示が行われ、数えきれないほどのサーフボードが並ぶ。その多くがメイド・イン・オーストラリアで、しかもアグネス・ウォーターからアンゴーリーまでの地域で作られたボードが9割以上を占める。このことから、このエリアがオーストラリア・サーフィンの中心であることがよく分かる。パーコをフィーチャーしたコーナーには、彼を忠実に再現した銅像も展示されていた。前日の大会で挨拶を交わしたばかりの2人は、その像を親近感を持って見入っていた。
「20年サーフィンをやってますが、博物館を訪れるのは初めてでした。自分も日本の歴史あるYUのボードに乗っているので、もっと歴史を学びたいと思いました」と拓久未。すると丈も続けて「サーフボードの起源であるアライアから現代のボードまで、時代の変遷を見られたのがとても良かったです。知らないシェイパーも多く、もっと勉強しようと思いました」と語った。
これまで、試合で勝つことを目標にサーフィンをしてきた2人。これからもその目標は変わらないが、歴史とカルチャーの奥深さを知ることで、新たなサーフィンの魅力に気づくことができた。
「シングルフィンに乗ることで、サーフィンの気持ちよさと楽しさを再発見しました。これからハマりそうです」。丈がこぼした言葉に、拓久未も大きく頷いていた。
仲村拓久未
1996年、奈良県出身。幼少期に奈良から三重に引越し、小学校3年生から本格的にサーフィンを始める。16歳でプロテストに合格し、2015年にJPSAの年間チャンピオンを獲得。現在は湘南・鵠沼と伊勢の2拠点生活を送っている。Instagram
安室丈
2001年、徳島県出身。サーファーでありシェイパーの父親の影響を受け幼少期からサーフィンを始め、14歳でプロに転向。2017年、宮崎県日向で行われた世界ジュニア選手権のU16で金メダルを獲得。2023年JPSAランキングは19位。Instagram
Burleigh Single Fin Festivalの記事は下からチェック
前編/後編
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special thanks _ Billabong, Zack Balang, Burleigh Boardriders
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2025年1月11日。ゴールドコーストの夏の風物詩として知られている「バーレー・シングルフィン・フェスティバル」が開催された。1985年以前のシングルフィンのみを使用するというユニークなレギュレーションのもと、ジュニア24名、ウィメン24名、メン96名、マスター6名の計4クラス、総勢150名がエントリー。後半となる今回は、いよいよ中村拓久未と安室丈が登場。果たしてふたりの結果はいかに。
ヒートはジュニアから始まり、ウィメン、メンと進行し、12ヒート目に拓久未が登場した。バーレーヘッズの丘から続く国立公園を抜けた岬の裏からエントリーし、メインとなるザ・ポイントに選手6名がラインナップ。その中には、元CT選手で「ウィルコ」の愛称で知られるマット・ウィルキンソンと、マーク・オクルーポ(オッキー)の姿も! オッキーは毎年この大会に参加するのを楽しみにしており、今年は息子のジェイと共にエントリー。憧れのレジェンドと同じヒートと知った拓久未は興奮を隠せず、ヒート前に記念撮影をする一幕もあった。強いサイドショアにより海面は乱れ、カレントも強く、パドルを続けていなければポジションをキープできないコンディションの中、開始のホーンが鳴った。バーレーヘッズは、オーストラリアはもとより世界有数のライトハンダーとして知られ、うねり、風、潮まわりの条件が揃えば、究極のチャレンジング・ステージになるポイント。サイズが上がるとソリッドなチューブが形成され、永遠と続くロングウォールが出現。「バーレーの波は中毒になるから危険だ!」とインタビューした全員が口を揃えたが、残念ながら今回はお預けとなった。
大きく左側にポジションを取った拓久未が、1本目の波にテイクオフした。ボトムターンからスムーズにトップターンへつなぐと大きなスプレーが上がり、強く蹴り込んだオフ・ザ・ボトムによりノーズが縦に上がる。ヴィンテージのシングルフィンとは思えないボードの取り回しとパワフルなライディングで3.93ptをマーク。合計5本乗ったが、この1本目が最高得点となった。
「いつもヒート前は少し緊張するのですが、今回は全く緊張せず、楽しく臨めました。1本目の波はサイズもあり形も良かったのですが、実は流して乗っていて40%くらいの力しか出していませんでした。あの波をもう少し力を入れて乗っていたら、5~6ptは出せていたかもしれないです。悔しいので、もう1回リベンジしたいです!」
普段のコンテストであればピークを目指し貪欲に波を追うが、大会のコンセプトや会場の雰囲気、海の中のリラックスしたムードを敏感に感じ取った拓久未は、“勝ちにいく”というマインドをオフにし、目の前に来た波をただ楽しみながら乗った。
「シングルフィンは、いつも乗っているスラスターよりスピードが早く、グライド感もあったので、“波に乗っている”という感覚をより味わえました。レールも力も、抜くところは抜いて、入れるところはしっかり入れる。抜いているときは、ボードがめちゃくちゃ走りました」
ツインフィンは3年ほど前から少しずつ乗り始めていたが、シングルフィンに乗ったことはほぼ皆無だった拓久未。YUさんからライトニング・ボルトのシングルフィンを借り、オーストラリアに持ち込んで前日から練習を重ねた。乗り込んでいけばもっと楽しくなりそうとシングルフィンの魅力に気づき、帰国したら1本オーダーすると目を輝かせていた。
続く13ヒートには丈が出場した。このヒートには、なんとオージー・ライトがエントリー! 2ヒート続けてのスーパースターの登場に、会場は大いいに盛り上がった。オープニングウェーブでいきなりフローターを決めたが、前が崩れてしまい、2.93ptというスコア。初めて乗ったヴィンテージボードとは思えない、スピードに乗った素晴らしいライディングを魅せる天才サーファー。拓久未と同じく5本乗り、本人が「ライン取りが良かった」と振り返る3本目の3.77ptが最高得点となった。
「いつも乗っているスラスターと比べても遜色なく、動きはスムーズでした。ボトムターンで伸びるし、分厚いレールにも関わらず、パワーゾンでレールを入れると素直に反応してくれました。フィンが1本だから、(フィンが)波に入っていく感覚がしっかり伝わりました。スラスターは緩慢なセクションではパンピングすれば抜けていけるけど、シングルフィンはレールを入れないと走らなかったです。弾くのではなく、レール・トゥ・レールでスピードをつける――そこが面白かったです」
ラディカルなアクションは控え、シングルフィンの特徴を生かしたスタイリッシュなサーフィンを意識した丈。シグネーチャーでもあるトップターンからの大きなカービングも披露し、ヒート終了間際まで2位をキープしていたが、最後の1本が乗りきれず逆転負けを喫した。
「この大会のことは2~3年前から知っていて、ビラボンから出場のオファーをもらったときは嬉しくて、いい波だったら最高だなって思っていました。昨年の映像を見たとき、選手の多くが短めのボードに乗っていたので、これなから勝てるかも! という自信はあったのですが……。ヒートでは掘れている波が多く、スラスターならクイックにターンして抜けていけるところがシングルフィンではそうはいかず、苦戦しました。焦って早い波に手を出しすぎたので、もう少し開いている波に乗れればよかったです」
結果としてふたりとも1回戦で敗退したが、普段のコンテストとは異なる選手、レギュレーション、雰囲気を味わえたのは新鮮で、さらにシングルフィンの奥深さを実感することができた。
2日目のメンズのファイナルヒートが行われる前に、ステージ上ではセレモニーが行われた。最初に、ファースト・ネーションの代表が登壇し、オーストラリアの先住民族アボリジニへ敬意を表するスピーチが行われ、その後、亡くなったボードライダースメンバーのために1分間の黙祷が捧げられた。そして最後に選手紹介。唯一のバーレーヘッズ・ボードライダースメンバーである相澤日向の名前がコールされると、会場には割れんばかりの歓声が上がった。オーストラリアで生まれ育ち、現在もオーストラリアで活躍している日向。結果は5位に終わったが、オッキーやマーゴ、オージー・ライトをおさえての入賞であり、表彰台に上がった唯一の日本人である。その姿は誇らしく、近い将来日本人が優勝する日もくるはずと確信した。
2日間のコンテストを終え、日本とオーストラリアのサーフシーンに大きな違いがあることに気付いた。それは地域に根付いたサーフコミュニティの存在。
オーストラリアでは、「サーフィン・オーストラリア」を頂点に、各州の団体(例:サーフィン・クイーンズランド)、その下に各地域のボードライダークラブ(例:バーレーヘッズ・ボードライダース)が組織されている。全国に85のクラブがあり、中でもバーレー、キラ、スナッパーは強豪として知られている。クラブのメンバーシップ費は、おおよそAUS$100~150。プロもアマチュアも関係なく並列の会員となるため、リストには憧れの選手と肩を並べて名前が記載される。そしてプロたちは、かつての自分たちがそうであったように、子供たちの育成に力を注ぎ、テクニックやメンタル、戦略を指導する。子供たちもプロに積極的に質問し、貴重なアドバイスを得ている。またクラブによってはビッグウェーブ・サーファーも所属しており、波の特性やトレーニング方法など、普段なかなか知ることができない情報を教えてもらっている。プロが身近にいるという、何とも羨ましい環境。昨年優勝したのはCT選手のリアム・オブライエンで、彼もバーレーヘッズ・ボードライダースのメンバーの一人。忙しいツアーの合間を縫って、クラブの活動に参加しているそうだ。アメリカやバリにも同様のボードライダースクラブが存在し、選手の交流や交換プログラムを通じて、国際的な繋がりも生まれている。また、クラブには地域活性化の側面もあり、市や州に対して補助金を申請することができ、各団体は非営利団体の組織として運営されている。日本にもNSA(日本サーフィン連盟)があるが、プロは別の組織に属しており、この点が大きな違いとなる。プロショップ単位での集まりもあるものの、横の連携をとり、地域単位で活動している姿はあまり見受けられない。さらにサーフユニオンという組織もあるが、これは業界の発展や普及を目的としており、ボードライダークラブとは根本的に成り立ちが異なる。オーストラリアがサーフィンに適した気候や波質のため盛んであることは揺るぎない事実だが、アマチュアもプロも区別なく、地域コミュニティの一員として活動する文化が、サーフィン大国の礎を築いていると確信した。
前編はこちらからチェック
photography _ MACHIO
special thanks _ Billabong, Zack Balang, Burleigh Boardriders
>>SALT...#04から抜粋。続きは誌面でご覧ください。
「SALT…Magazine #04」 ¥3300
サーフィン、暮らし、生き方、そして思考をより本質的なものへと回帰。シンプルで持続可能な在り方を追求することこそが、真の豊かさにつながる。
<Contents>
⚪︎Burleigh Single Fin Festival
⚪︎未知なる領域へ̶̶ サーフィンの新境地
⚪︎シングルフィンを愛する10人のインタビュー
⚪︎STILL AND TRUE
⚪︎笹子夏輝 ~カリフォルニア・スタイル巡礼の旅
⚪︎サーフィンによるマインドセットのススメ
⚪︎Stories Behind the Waves
⚪︎今を生きるサーファーたちのダイアログ
⚪︎世界の果て、南ポルトガル・サグレス
⚪︎Column _ Miyu Fukada
オンラインストアにて発売中!
TAG #BACK TO BASIC BACK TO SINGLE FIN#BILLABONG#Burleigh Single Fin Festival#SALT...#04#シングルフィン#中村拓久未#安室丈
1960 年代から’70 年代にかけて主流だったシングルフィン。
かつては過去の遺産と揶揄されることもあったが、近年、世界各国で再び注目を集めている。その理由の一つは、シンプルで洗練されたデザインが持つ独自の特性にある。シングルフィンは余計な要素を排し、直進性とグライド感を最大限に高めた構造を持つ。波のエネルギーを効率よく活用し、流れるようなターンを生み出すその特性は、サーファーに正確なレールワークと波を読む力を求める。鋭角なターンには向かないものの、ドライブ性が高く、波のフェイスをトリムしながら滑走。ホローな波ではフィンが水をしっかりホールドすることでスピードロスを抑え、加速しながら波と一体化する。こうした特性を活かしたシングルフィンサーフィンは単なるスタイルの一つではなく、その力を最大限に引き出すためのアプローチでもある。この流れは特にオーストラリアにおいて顕著で、多くのサーファーがシングルフィンの価値を再認識している。大手メーカーからは、往年のデザインを再現したクラシックモデルや、現代の技術を取り入れたリファインモデルがリリースされるなど、マーケットにも影響を与えている。その背景には、オーストラリアのライフスタイルと密接な関係があるようだ。
オーストラリアの沿岸地域には、シンプルで牧歌的な暮らしが根付き、過剰な消費を避け、自然に寄り添った生活を大切にする価値観が浸透している。特にサーフカルチャーが根付く地域では、日常生活が自然のリズムに合わせて構築され、バランスを重視する傾向が強い。ミニマリズムが示すように、本当に必要なものだけに囲まれることで精神的な充足が得られる。この考え方は、シングルフィンサーフィンの本質とも共鳴する。多くのフィンを搭載したパフォーマンスボードが機動性を追求するのに対し、シングルフィンは波との一体感を重視する。一見、不便に思えるかもしれないが、身軽になることでより自由に生きられるのと同じように、シングルフィンサーフィンも無駄を削ぎ落とした先に、本質的なサーフィンの喜びがある。波のうねりに身を委ね、力でねじ伏せるのではなく、その流れに調和する。そうしたシンプルな行為の中にこそ、深い満足感と心地よさが生まれるのだ。
今回の特集では、再燃するシングルフィンサーフィンの最前線を探るべくオーストラリアに渡った。シングルフィンを愛するサーファーやシェイパーを取材し、その哲学やスタイルに迫る。最初の舞台は、バーレーヘッズで30 年近く続くシングルフィンのコンテストだ。
オーストラリア・ゴールドコーストで毎年開催されている「Burleigh Single Fin Festival」。その名の通り、シングルフィンのみで競い合うサーフコンテストで、今年で28年目を迎える由緒ある大会。このイベントに、日本からビラボンライダーの仲村拓久未と安室丈がエントリー。大会を通じて浮かび上がるサーフィン大国たる所以と、一枚刃の奥深さ。
2025年1月11日。ゴールドコーストの夏の風物詩として知られている「バーレー・シングルフィン・フェスティバル」が開催された。1985年以前のシングルフィンのみを使用するというユニークなレギュレーションのもと、ジュニア24名、ウィメン24名、メン96名、マスター6名の計4クラス、総勢150名がエントリー。その参加人数の多さもさることながら、今年で28回目を迎える歴史の長さに驚く。1987年からバーレーヘッズ・ボードライダースクラブの代表を務めるジェシー・アウトロムに、大会開催の経緯を聞いた。
「ボードライダースが設立されたのは今から60年前の1965年。亡くなった初期メンバーの一人、ピーター・ロバーツのメモリアルイベントとして同メンバーのピーター・ハリスが始めたのがきっかけ。最初の3回はメモリアルとして行い、過去にはマイケル・ピーターソンを追悼する大会として開催したこともあった。当初は数人の小さな大会だったが年を重ねるごとに大きくなり、現在では150名が参加する大会へと成長している」クラブには男女問わず、子供から大人まで幅広い年齢のサーファーが所属しており、14歳から60歳までを対象とした大会を月に1度開催している。メンバーにとって大会での成績は重要だが、主催者側の真の目的は子供たちの育成にあり、“彼らにサーフィンの楽しさを伝え、次の世代に繋げる”ことにある。大会以外にもビーチクリーン活動を実施したり、会費を環境団体へ寄付するなどの取り組みも行っている。前述の月に1度行われている大会はショートボードの大会だが、今回はシングルフィンのみを使用した大会。その理由について、ジェシーはこう続けた。
「クラブ設立時は、みんなシングルフィンに乗っていた。その当時に敬意を払い、ピュアにサーフィンを楽しむことができるシングルフィンの大会にしている」
ジャッジのクライテリアは、フローとマニューバリティに加え、スタイル(グッドルック)を重視。ヘッドジャッジを加えた計4名により採点が行われた。ローカルな大会とはいえ、規模も注目度も高く、エントリー枠も募集開始早々に埋まることが多い。そのため、クラブメンバーやスポンサー向けの特別枠が設けられており、拓久未と丈は大会のメインスポンサーであるビラボンの枠を使用して出場した。
コンテストは2日に渡って行われたが両日ともあいにくの雨で、真夏のオーストラリアとは思えない肌寒い天気。時折風も強き吹きつけ、決して良いコンディションとは言えなかった。実際、オーディエンスの数も例年の半分ほどだったが、選手も主催者も天候を全く気にする様子もなく、朝7時に大会がスタートした。ちなみに、28年の歴史の中で天気や波の影響で中止になったことは一度もなく、パンデミックの間も途切れることなく開催されてきた。
後半に続く
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サーフィン、暮らし、生き方、そして思考をより本質的なものへと回帰。シンプルで持続可能な在り方を追求することこそが、真の豊かさにつながる。
<Contents>
⚪︎Burleigh Single Fin Festival
⚪︎未知なる領域へ̶̶ サーフィンの新境地
⚪︎シングルフィンを愛する10人のインタビュー
⚪︎STILL AND TRUE
⚪︎笹子夏輝 ~カリフォルニア・スタイル巡礼の旅
⚪︎サーフィンによるマインドセットのススメ
⚪︎Stories Behind the Waves
⚪︎今を生きるサーファーたちのダイアログ
⚪︎世界の果て、南ポルトガル・サグレス
⚪︎Column _ Miyu Fukada
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