• 【シングルフィン特集】1971年〜1974 年。純粋なサーフィンの時代_鬼才デレク・ハインドが語り継ぐサーフィン黎明期
  • 2025.07.02

フィッシュ、ツイン、フィンレス、さらに’70 年代のボードをレストアしてオルタナティブームを創った影の立役者、デレク・ハインド。その基礎は、リーシュなき時代のシングルフィンから学んでいる。


1971年から1974年、この時代はシングルフィンが主流で、サーファーはそれぞれの地元のビーチのルールに従っていた。ハワイ・ノースショアのサンセットとパイプラインでは、誰が一番奥に陣取れるかが重要視され、同じようにオーストラリアのノースナラビーンやニューポートのピークでも、厳格に順位が存在していた。サーファーは地元のエチケットを学ぶ必要があり、ラインナップのプロトコルは厳守されていた。それは現在も連綿と受け継がれている。この時代、誰もレッグロープを使用していなかった。レッグロープを使用することは、サーファーではないことを認めることだった。サーファーは泳法、離岸流の見極め方、ボードを守るための素早い動きを学び、波に乗る際には海とラインナップに敬意を払っていた。
シングルフィンは信頼性を重視して作り上げられた。限界を超えずに、いかにうまく波を乗り切るか。例外はナラビーンのコール・スミスとサイモン・アンダーソンだ。彼らはすべての波に全力で挑み、ワイプアウトすることはなかった。サーフィンは、スポーツというよりは芸術的な解釈の行為で、それは今も変わらない。暴力的な攻撃の儀式というよりは、生き残るためのダンスであり、スタイルがすべてであった。安定したシングルフィンの信頼性を出発点として波に乗る。ワイデストポイントはセンターから4インチ上、最も厚い場所は胸の下、ノーズからテールまでのフォイルは徐々に薄くなっていく。技術が高ければ、ノーズとテールのリフトは低くなる。また、スタイルがソウルフルであればあるほど全体のロッカーは抑えられ、テリー・フィッツジェラルドのハイライントリムは、その象徴だった。
’71年から’74年にかけて、サーフボード市場は二極化していた。自宅の裏庭でボードを作るクラフトマンたちは、地元のアイデンティティを守る役割を果たし、大手メーカーはより広いマーケットと競技サーファーに対応していた。当時14歳から17歳の時期にあたる私は、ニューポートビーチで育ち、平均的なサーファーだった。しかし、周囲には偉大なサーファーがたくさんいた。北のアバロンとホエールビーチには、ナット・ヤングとミジェット・ファレリーが率いるスタイルの巨匠、南のナラビーンとディーワイには、コール・スミス、マーク・ウォーレン、ダッパ・オリバーといったアグレッシブなサーファーがいた。当時のラインナップは混雑していたが、レッグロープがなかったためサーファーはボードを守るために泳ぎ、波を共有していた。シングルフィンは岩にぶつかっても壊れないよう、6オンスのクロスをデッキに2枚、ボトムに1枚グラッシングしており、重なり合うレールは最大の強度を誇っていた。ロッカーはフラットで、テー
ルはノーズのリフトの約半分というのがベース。特にブルックベールで生産された高品質なボードは、多くのサーファーの憧れだった。’71年から’72年にかけて、ファレリー・サーフボードは地球上で最も美しいボードをつくり、翌’73 年から’74 年にかけては、ホットバタード・サーフボードが、マーティン・ワーティンソンの幻想的なエアブラシを施した、芸術品のようなボードを発表した。私のような子供は、中古ボードを買うか、裏庭で自作するという選択肢しかなかった。ファレリーやホット・バタードなどの大手レーベルよりもはるかに安く作る裏庭の業者は、サーファーを地元で育てる上で重要な役割を果たした。1つのビーチに、1つのアイデンティティが必要だった。裏庭の
ボードは、グロメッツの信頼性、つまり地元の海でサーフィンするチケットが与えられたようなもの。裏庭で素晴らしいボードを削っていたティミー・ロジャースは、アバロンの若者たちから熱烈な支持を受けていた。私が初めて彼のボードを手に入れたのは16歳のときで、6フィート4インチのダウンレールのシングルフィンだったと、はっきり覚えている。ティミーは私と同じ通りに住んでいた。学校から帰ると彼のシェイピングベイを訪れ、海にもよく一緒に行った。岩の前でも波から逃げないこと、大切なボードに向かって泳ぐことなど、サーフィンに必要なことをたくさん教えてくれた。
シングルフィンは波のクリティカルゾーンに入ると安定する。ナイジェル・コーツはリトルアバロンの王者だった。彼のスタイルは、リノ・アベリラとナット・ヤングを融合させたもので、ボードを失うことなく、スタイリッシュにストールして「スロット」する。1975年にレッグロープが登場したことで、ワイプアウトしてもボードを失うリスクがなくなり、その結果コアサーフィンは終焉を迎えた。同時に、レッグロープの普及はシングルフィンの終わりも意味していた。もはやボードの安定性が最優先でなくなったのだ。1975年の終わり、私は幸運にもショーン・トムソンがレッグロープなしで、サーフィンするのを目の当たりにした。その日はクローズ状態の荒れ狂う海だったが、彼はシングルフィンで入水。前足でボードをダンパーの壁に押し込み、後方へと抜けていく。その動きは、まさに芸術だった。しかし、それは今や時代とともに失われてしまった技術である。 
このようにして、シングルフィンに乗るサーファーは姿を消した。ツインフィンに乗った不運なサーファーは、サイモン・アンダーソンだった。彼は体が大きく、ツインフィン向きの軽量なサーファーたちにワールドツアーで苦戦を強いられていた。ツインフィン・ライダーたちは波の上を踊るように滑り、シングルフィンに乗るサイモンを圧倒して次々と高得点を叩き出した。彼は後ろ足でボードをコントロールするサーフィンをしていたため、ツインフィンのように前足重心で乗るボードを上手く操ることができなかった。その結果、シングルフィンの安定とツインフィンのスピードを組み合わせた「スラスター」が生み出されたのである。
2025年、私はバイロンベイのザ・パスでサーフィンをしている。ここに住み、夜明けとともにパドルアウトする。運が良ければ、大勢のサーファーが集まる前にいい波に乗ることもある。ただ、彼らはほとんどがビジターで、レッグロープに縛られた野蛮人のように振舞う。正直うんざりしている。
かつて、レッグロープのないシングルフィンの時代、ディープなポジションでサーフィンしていたのは、わずか5人ほどだった。彼らは皆、シングルフィンがもたらす繊細な感覚を極めた、地元の達人だった。私が見たシングルフィンでの最も鮮烈なライディングは、ビクトリアで開催された世界選手権の決勝で、テリー・フィッツジェラルドが見せた一本だった。波は6フィート。エクスプレス・ポイントと呼ばれるリーフで、ホローな波が炸裂していた。テリーはフルスピードで最速セクションを抜けようとしたが、目の前でチューブが砕け散り、ワイプアウト。彼のボードは波のフェイスから飛ばされ、30ヤード先のクライマーに向かっていた。しかし、テリーは慌てることなく、仰向けのままボディサーフィンをし、フォームの中でカットバックしてボードをキャッチしたのだ。あの時代のサーファーは誰も個性的で、シルエットだけで誰だか分かった。今でもサーフィンにおいて重要なのは個性である。’70年代の写真や映像を観れば、「上手い下手」ではなく「好きか嫌い」がハッキリするだろう。それが個性で、サーフィンの本質である。

デレク・ハインド
1957年、シドニー出身。11歳でサーフィンを始めるがプロを目指さず、シドニー大学経済学部で博士号を取得。同年プロサーキットに参戦。1980年南アフリカの試合中に事故で片目デレク・ハインド を失うも、翌年ランキングを7位に上げて引退。

photography : Aition text _ Derek Hynd translation _ Tadashi Yaguchi

>>SALT...#04から抜粋。続きは誌面でご覧ください

「SALT…Magazine #04」 ¥3300
サーフィン、暮らし、生き方、そして思考をより本質的なものへと回帰。シンプルで持続可能な在り方を追求することこそが、真の豊かさにつながる。

<Contents>
⚪︎Burleigh Single Fin Festival
⚪︎未知なる領域へ̶̶ サーフィンの新境地
⚪︎シングルフィンを愛する10人のインタビュー
⚪︎STILL AND TRUE
⚪︎笹子夏輝 ~カリフォルニア・スタイル巡礼の旅
⚪︎サーフィンによるマインドセットのススメ
⚪︎Stories Behind the Waves
⚪︎今を生きるサーファーたちのダイアログ
⚪︎世界の果て、南ポルトガル・サグレス
⚪︎Column _ Miyu Fukada

オンラインストアにて発売中!

TAG ####