Profile
坂口 憲二- Kenji Sakaguchi -
1975年、東京都生まれ。1999年のデビュー以来、俳優として活躍。2018年、難病の治療のため芸能活動を休止。ポートランドの旅をきっかけに焙煎士としての道を歩む。2019年春に〈ライジングサンコーヒー〉の東京店、2021年はじめに横浜・鶴見店をオープン。
難病の治療に専念するために、芸能活動を休止していた坂口憲二さんが昨年、ドラマ『教場』に出演し話題を呼んだ。現在はセカンドキャリアであるコーヒーの焙煎士を続けながら、東京・千葉・神奈川にコーヒーショップを展開する経営者だ。コーヒーに、サーフィンに、人生に。坂口さんが今の生活に思うこととはーー。
週の半分を千葉の焙煎所で過ごしながら、経営する〈ライジングサンコーヒー〉のブランドプロモーションに携わる坂口さん。東京、千葉に続き、昨年はじめにオープンした横浜・鶴見店の業績も順風満帆のようで……。
「でも、僕が決めているのは経営方針や商品開発とか、大枠だけ。現場を仕切るのは若い子たちです。お店のことは彼らに一任。鶴見店も、30代の店長にデザインから任せました。その代わり『自分たちの店だっていう自負を持てよ』と話しています」
愛用するドイツ・プロバット社製の焙煎機。「焙煎士のやりがいは、失敗も成功もローストすればそのままコーヒーの風味として出てくるところ。でも、コーヒーって淹れてしまえば色はほとんど一緒ですよね。途中の工程を手抜きしても、パッと見て素人にはわからない。だからこそウソをついたらダメ」
一方で坂口さんは、看板メニューである「アフターサーフ」や「ワイプアウト」に次ぐブレンドを開発するべく、よりよい豆の組み合わせや焙煎方法を模索中。それにしてもサーファーのコーヒーショップとはいえ、飲み物に「転倒」とはユニークだ。
「アフターサーフ」は、読んで字のごとく、“海上がりの舌”を想定してつくられた。メインはナチュラルプロセスの「ブラジル/シティ・ダ・トーレ」。そこに、香り豊かな「ケニア/ングルエリ」をアクセントで加えた。口当たりよく、ボディ感のあるテイストは、毎日飲んでいても飽きがこない
「波の上で転んだときのガツン! という衝撃を、飲みごたえのあるブレンドで表現したかったんです。スマトラ島北部のアチェ地区とリントン地区からとれたマンデリンを、生豆の状態で1:1でプレミックスして焙煎。そうすることで、より複雑な味わいに仕上がりました」
そうして生まれた「ワイプアウト」は、千葉・大網店のみならず、サーファー人口の少ない鶴見店でも一躍人気に。補足するように、坂口さんはあるエピソードを披露してくれた。
「お店を開いたばかりの頃、地元の人は恐る恐る様子を見にくるといった感じでした。でも、何人かがリピーターになったのを機に評価してくれたみたいで。今では商店街のおばちゃんが『ワイプアウトある?』って買いにきてくれます。“海から縁遠いところで、サーファー用語が飛び交う”という光景が、見ていて面白いです」
それもこれも、坂口さんの愛のある焙煎が、お客さんの心をつかんだからに他ならない。興味深い話だが、そもそも〈ライジングサンコーヒー〉のきっかけは、活動休止中、坂口さんがアメリカ・オレゴン州ポートランドを旅したこと。
「初めて訪れたときにカフェ巡りをしてみたんです。すると気づいたのは、その規模の大きさ。『これ本当にコーヒー屋なの?』という外観の、倉庫みたいなショップがあって。そこでボサボサのヒゲを生やしたおじさんや、がっつりタトゥの入ったパンクなお姉さんが、すごく丁寧にコーヒーを淹れていたんです。コーヒーが人々の生活に強く結びついている様子に強く惹かれました。と同時にその光景が、昔、サーフトリップで訪れたカリフォルニアの風景と重なったんです。『こんな感じでサーフィン前後に立ち寄れる、渋くて洒落た場所があればいいな』と」。
>>インタビューの続きは本誌でご覧ください。
愛車は“HONDA XL230”。バイクに乗っているときも、サーフィンをしているときもいつも自然体。「『やっていて心地がいいかどうか』をライフスタイルの基準にして以来、自分らしくいられている気がする」と語る
「SALT…Magazine #01」 ¥3,300
本誌では坂口憲二さんのインタビューを全文公開。アメリカから帰国してコーヒーの勉強を始め、バリスタ・ロースターの元で修行を重ね、〈ライジングサンコーヒー〉をオープン。セカンドホームでもある、千葉・九十九里での生活などを語ってくれています。
photography _ Yasuma Miura text_Ryoma Sato
TAG #SALT…#01#ビーチライフ#ライジングサンコーヒー#坂口憲二
海と繋がり、自分の中の好きや小さなときめき、そしていい波を追い求めてクリエイティブに生きる世界中の人々、“Ocean People”を紹介する連載企画。彼らの人生を変えた1本の波、旅先での偶然な出会い、ライフストーリーをお届けします。
Profile
Ana Houpert アナ・ホウパート
フランス出身、24歳。フランス西部のオレロン島でフードトラックを経営。春から秋はオセゴーとの二拠点生活を送りながら、冬はインドネシアをはじめとするアジアのサーフスポットを旅して過ごしている。
あなたのことについて教えて
生まれも育ちもフランス北西部の、海から遠く離れた小さな街。5年前、19歳のときにオセゴー近郊の街へ移り住み、春から秋にかけてのヨーロッパのハイシーズンには、オセゴーとオレロン島を行き来している。そして冬の間は、インドネシアをはじめとする様々なアジアのサーフスポットを旅しているの。
フランスでは、アサイーボウルやコーヒーなど、サーフィンの後に手軽に食べられるヘルシーなフードやドリンクをフードトラックで販売している。この地域には、伝統的なレストランが多く、フレッシュでオーガニックな食材を使ったお店や、サーファーたちが気軽に立ち寄れるようなコミュニティスペースが少なかったことが、フードトラックを始めたきっかけだった。
また、リトリートやイベントではシェフとしても活動しており、ヘルシーなフードを提供するなど、健康的なライフスタイルを届けることを大切にしている。
サーフィンを始めたきっかけは?
サーフィンを始めたのはホセゴーに引っ越してきたのがきっかけで、今から4年くらい前。波のコンディションに合わせて、ロングボードとショートボードを使い分けるのが好きだけど、インドネシアに行くときは、バレルを求めてショートボードが中心。
インドネシアを初めて訪れたのは6年前。当時のバリは今のように開発が進んでなく、その姿を見ることができて本当にラッキーだった。そのときに目にした波や景色が忘れられなくて、昨年(2024年)はじめて一人でサーフトリップに出かけたの。今年はスンバワ島やメンタワイ諸島など、他の島々にも足を延ばし、インドネシアの自然の美しさを肌で感じることができた。波はもちろん最高で、現地の人たちもとてもフレンドリー。ますます大好きな場所になった。
特に印象的だったのが、今年メンタワイで出会ったオーストラリア出身のサーファーガールたち。ビッグウェーブに挑む姿や、ツインフィンでスタイリッシュに波を乗りこなす彼女たちの姿に、とても刺激を受けたわ。もっと旅をして、価値観の近いサーファーたちと出会いながら、自分のサーフィンのスキルを磨いていきたいという気持ちが、これまで以上に強く芽生えた。
どこで、どんな波に乗るかも大切だけど、そこで出会う人たちこそが、サーフトリップの醍醐味だと気づかされた旅だった。
海、自然との関係を言葉で表すなら?
海にいるときが、一番“安心”を感じられる時間。すべての時間がゆっくりと流れて、「今この瞬間」を心から楽しめる。特に、仕事のことで頭がいっぱいになっている日々の中で、サーフィンをしている時間は本当に大切なひととき。そして、波が大きい日やチャレンジングなコンディションの日は、自然の力が私を謙虚にしてくれる。自分の存在や日々の悩みがちっぽけに感じられて、改めて海の壮大さに圧倒される。
あなたの生活に欠かせない3つのものは?
サーフィン、深い繋がりを感じられる友達、そして自分と他人への愛。
これから何か新しいことを始めたい人へのアドバイスをするとしたら?
まずは、自分を信じること。そして、前向きなセルフトークを心がけることが大切。あとは、自分に厳しくなりすぎないことかな。
言葉には不思議な力があって、「私にはできない」とか「向いてないかも」といったネガティブなセルフトークは、自分の行動や気持ちにも影響してくる。
若い頃は、深く考えずについそういう言葉を口にしていたけれど、今はできるだけ、自分の背中を押してくれるような言葉を選ぶようにしている。
text:Miki Takatori
20代前半でサーフィンに出合い、オーストラリアに移住。世界中のサーフタウンを旅し現在はバリをベースに1日の大半を海で過ごしながら翻訳、ライター、クリエイターとして多岐にわたって活動中。Instagram
TAG #Ocean People#アナ・ホウパート#インドネシア#ビーチライフ#連載
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Profile
Carla Rosenthal カーラ・ロゼンタル
フランス・ニース出身。現在はロンボクを拠点に生活しながらサーフィン、ガールズコミュニティの運営を行っている。
あなたのことについて教えて
生まれも育ちもフランス、地中海のそばのニースという街。幼い頃から海の近くで育ったから、子どもの頃は都会でのシティライフに憧れていた。
20代になってパリに引っ越し、そこで約3年間ほど働いた。パリは世界中から人が集まる大都市でとても魅力的な場所だけど、私には合わなかったみたい。次第に海辺での暮らしが恋しくなり、仕事を辞めてインドネシアへ2ヶ月間の旅に出ることにしたの。
インドネシアでは、ストレスのない日々と毎日気軽にできるサーフィンの生活がとても心地よく、自分にぴったりだと感じた。そして、フランスへ戻る飛行機の中で「インドネシアに移住しよう!」と決めたの。住む期間も仕事も決まっていなかったけれど、不思議と“やっていける!”という根拠のない自信があって、その直感に従った。
現在は、バリ島の隣にあるロンボク島を拠点に暮らしている。ここに住む人やコミュニティはとても温かくて、道を歩けば誰かしら知っている人に会える。ひとりだけど、ひとりじゃない——そんな言葉がぴったりな場所。
そして2023年には、「SEASTERS CLUB」というガールズサーファーのコミュニティを立ち上げた。ミートアップやグループサーフィンなどを通して、仲間同士で刺激を与え合いながら活動を続けている。
サーフィンを始めたきっかけ、お気に入りのスポット、次に行きたい場所は?
実はインドネシアに来るまでは、一度もサーフィンをしたことがなかったの。「今から始めるには遅すぎるし、体力もついていかない。サーフィンはクールな人がやるものだ」って、勝手に思い込んでいたの。でも、ロンボクでは初心者もたくさん海に入っていて、みんな笑顔で楽しそうに波に乗ってる。年齢なんて関係なく、心からサーフィンを楽しんでいる人たちに出会い、私の中のサーフィンへのイメージがガラッと変わった。いまは9’4”のロングボードに乗って、すっかりサーフィンに夢中。よく行くスポットは、ロンボクの南にある「Tanjung A'an(タンジュンアン)」という場所。ライト・レフト両方の波があり、中級者向けの波が楽しめる。あと、Ekas(エカス)もお気に入りの場所のひとつ。
次に行ってみたい場所は、ハワイ、メンタワイ、そしてモルディブ。どれも夢が広がる場所ばかり!
海、自然との関係を言葉で表すなら?
最近、サーフィンは人生によく似ているなと感じるようになった。良いセッションができる日もあれば、そうじゃない日もある。だけど、その一度のセッションに一喜一憂するのではなく、人生と同じように“サイクル”を楽しむことが大切なんだと思う。
そして海は、まるで私たちの心を映す鏡。ネガティブな気持ちを抱えて海に入ると、怪我をしたり、うまく波に乗れなかったりと、不思議とよくないことが起こる。毎回海に入るたびに、そんなことをふと気づかされる。
あなたの生活に欠かせない3つのものは?
友達、家族、サーフィン。
今後の夢や目標は?
昔はたくさん夢があったけれど、今はあまり具体的な目標を持たないようにしている。というのも、私はつい自分にプレッシャーをかけてしまうタイプだから、今は人生もサーフィンも、ただ純粋に楽しむことをいちばんの目標にしている。もちろん、いつか成し遂げたいことはたくさんある。でも今は、「If it happens, it happens(なるようになる)」がモットーかな。そんなふうに、自然体で生きていけたらと思っている。
20歳の自分に何かアドバイスをするとしたら?
たくさんのことに挑戦して、そこから自分が好きなことや情熱を持てることを見つけるのが一番大切。そして、失敗しても自分に厳しくなりすぎない。結果よりも、その過程を楽しむことを忘れないでいて欲しい。
text:Miki Takatori
20代前半でサーフィンに出合い、オーストラリアに移住。世界中のサーフタウンを旅し現在はバリをベースに1日の大半を海で過ごしながら翻訳、ライター、クリエイターとして多岐にわたって活動中。Instagram
TAG #Ocean People#カーラ・ロゼンタル#ビーチライフ#ロンボク#連載
海と繋がり、自分の中の好きや小さなときめき、そしていい波を追い求めてクリエイティブに生きる世界中の人々、“Ocean People”を紹介する連載企画。彼らの人生を変えた1本の波、旅先での偶然な出会い、ライフストーリーをお届けします。
Profile
Anna-Lena Ramminger アナ・レナ・ラミンガー
ドイツ出身26歳。現在はオーストラリア・バイロンベイを拠点にフリーランスのクリエイターとして活動している。
あなたのことについて教えて
生まれ育ちは、ドイツのウルム近くの小さな街。大学を卒業してから、ずっと「旅に出たい」という思いがあった。初めて訪れたタイで、カフェやレストランでオンラインで仕事をしている人をたくさん見かけ、それをきっかけに自分も旅をしながら働くライフスタイルが合っていると感じた。その後フリーランスでマーケティングの仕事を始めて、インドネシアのロンボクへ。ずっと夢見ていた生活が実現できてとても嬉しかったし、海の近くに住むことが自分を幸せにしてくれることにも気付いた。
ロンボクで出会った人からオーストラリアを勧められて、その後クーンズランド州のヌーサで1年過ごした。今はバイロンベイをベ拠点に、バリスタやフリーランスのフォトグラファー、ヨガのインストラクターなどをしながら生活している。インドネシアは大好きな場所だから、来年にはまた戻りたいと思っている。特にロンボクは最高の波があり、バリほど忙しくないけどおしゃれなカフェや温かいコミュニティがあって、とても気に入っている。
Annaが撮る写真はすごくシンプルだけど、見る人に何か特別な感情を与えてくれる。インスピレーションや写真を通して伝えたいことは何?
私の写真はすごくミニマルな表現が多い。日常のなにげない風景を切り取ることを大切にしていて、それは忙しい毎日の中でつい見過ごしてしまうような瞬間だったりする。特に海の風景では、太陽が水面に反射する煌めきや、波の質感を表現することを意識している。余計な色やノイズを加えず、最小限の編集でその瞬間にある美しさをそのまま伝えることを目指している。
サーフィンを始めたきっかけ、お気に入りのスポット、次に行きたい場所は?
ドイツにいた頃からサーフィンを始めていたけど、実際にサーフィンができるのは年に2週間のホリデー期間だけだった。そのためなかなか上達せず、「いつか海の近くに住みたい」という思いが強くなった。
2023年にロンボクに数ヶ月滞在したことで、ようやくサーフィンのリズムを掴むことができ、今では毎日サーフィンができる生活を送っている。バイロンベイ周辺でお気に入りのスポットは、パス、ワテゴス、レノックス。ヌーサのTea Tree Bayも、大好きなロングボードスポット。次に行きたい場所は、メンタワイとタヒチ。
海、自然との関係を言葉で表すなら?
海で過ごす時間は、まるで瞑想やセラピーのよう。「今、この瞬間を楽しむ」ことができ、どんな感情も洗い流してくれる。日常生活では常にデバイスを持ち、人とつながることが簡単になったけれど、目の前の景色や会話に100%集中できていないのも事実。でも海の中では、波待ちをしながら隣のサーファーと話したり、海から見える景色を思う存分楽しむことができる。
あなたの生活に欠かせない3つのものは?
波、旅行、家族のようなコミュニティ。
今後の夢や目標は?
今後は、自分の人生を築いていける「ベース」を見つけたい。旅をすることは大好きだけど、いつか「ホーム」と呼べる場所に落ち着きたいと思っている。また、毎日サーフィンを続けながら、フリーランスとしてしっかり独立できるよう、今後数年間は自分のスキルアップとコネクションを築くことに力を入れていきたい。
何か新しいことを始めたい人へアドバイスをするとしたら?
何かやりたいことがあれば、思い切って始めてみること。そして、「失敗しても大丈夫」と自分に言い聞かせることも大切。住む場所やキャリアなど、変化があると最初は居心地が悪く感じるかもしれないけれど、変化があるからこそ、新しい面白いことが生まれることもある。それを楽しめるようになれば、怖いものなんて何もないと思う。
text:Miki Takatori
20代前半でサーフィンに出合い、オーストラリアに移住。世界中のサーフタウンを旅し現在はバリをベースに1日の大半を海で過ごしながら翻訳、ライター、クリエイターとして多岐にわたって活動中。Instagram
TAG #Ocean People#アナ・レナ・ラミンガー#バイロンベイ#ビーチライフ#連載
海が似合う“素敵なあの人”が偏愛する、モノやコトを紹介するこの企画。今回はフリーサーファー・モデルのSENAさんに話を伺った。
Profile
SENA
湘南生まれ、湘南育ち。18歳で始めたサーフィンに熱中し、あらゆるタイプのボードに乗るフリーサーファー。現在はモデルとしても活躍中。
「僕がいちばん大事にしているのは、自由と自分の心に従うこと。オーストラリアへ行くことも、ほぼ直感で決めました」
そう話すのは、モデルとして活躍するSENAさん。大学を休学し、サーフィンのスキルアップを目指してオーストラリアへ留学。様々なビーチのそばで、誰もが羨むような1年間を過ごした。
「オーストラリアへ行った目的としては、サーフィンにもっと関わりたかったから。スキルを上げるのはもちろん、シェイプも学びたいと思っていました」。1箇所に留まらず、場所を転々としながら暮らしていたという。
「最初はゴールドコーストのサーファーズパラダイス。そのあと近くのブロードビーチ、そしてバイロンベイ。最後はバイロンの隣町のサフォクパークに一軒家を借りて、日本から一緒に来た彼女と住んでいました。
バイロンの飲食店でバイトしていたとき、お客さんとして来ていたシェイパーの方と知り合い、その方の仕事を手伝わせてもらっていました。ライダーとしてボードの乗り味をフィードバックし、一緒にアイデアを出しながらコンセプチュアルな一本を作ったり。念願だったシェイプもさせてもらい、ひとりで仕上げまでできるようになりました」
「休みの日はずーっと海にいました。朝起きたらすぐに食べ物を用意して海に行き、とりあえずサーフィン! 波が良くなかったら上がって、ビーチでリラックス。気がつくと仲良くなった子が集まってきて、みんなでワイワイ盛り上がって。そんな最高な毎日を過ごしていました」
「オーストラリア人はとにかくフレンドリーで、良くも悪くも我が強い(笑)。でも、そんなところがすごく魅力的でした。みんな自分の意見を持っていて、怯むことなくアウトプットするんですよね。だからこそ、周囲の意見にも素直に耳を傾けられる。それってすごく自由だし、格好いいなって。日本の周囲に気を遣う文化も素晴らしいけれど、こういう海外のスピリットの方が自分には合っている気がします」
湘南生まれの彼が本格的にサーフィンを始めたのは、意外にも大学生の頃だった。
「小さい頃から野球少年だったんです。高校生までは野球ひと筋で、ひたむきに努力してました。高校最後の大会で全力を出し尽くして、十分にやりきったなと。これからは自分がやりたいことにチャレンジしようと思い、サーフィンを始めました」
それからはサーフィンにのめりこみ、ショートとロング両方のコンテストに出場するまでの実力をつけた。しかし、今は競うサーフィンに全く興味がなくなり、ボードも定まっていないという。
「サーフィンは競うよりも、自由に波を楽しむ方が僕には向いていて。その日の波によってショートだったりロングだったり、ボードを変えて楽しんでいます。人と一緒で波にも個性があって、同じものはない。乗り方も決まりはないんだから、自由に楽しみたい。寝そべってもいいし、永遠に波待ちしていたっていい。自分の気分によって楽しむことができるのも、サーフィンならではだなって思うんです。オーストラリアで経験した自由とサーフィンの本質。体現者として、これからは自分が発信していきたいと思っています」。
text _ Miri Nobemoto
TAG #Ami Angel#ハワイ移住#ビーチライフ#素敵なあの人の偏愛事情
海と対峙するとき、音楽は円滑油のような効果を発揮する。サーフィンと音楽が絡み合い起こる化学反応。多くの先人たちの言葉を交え時空に綴れ織りを描くとき、サーファーとダンスの関係が見えてくる。
自分にはサーフミュージックなんて1968年まで存在してなかった。それ以前、5才上の兄がビーチボーイズの音楽付きサーフィン動画番組を観ていたのは覚えているが、サーフィンを始めた頃はまだ、グループサウンズや作詞家先生が作詞して作曲家先生が作曲、それをプロの歌手が立派に謳いあげる……だったような気がする。だからサーフィンと出合い物心がついてくると、サーフィンの影にはカーペンターズの「クロース・トゥ・ユー」や、サイモン&ガーファンクルの一連のヒット曲がつきまとっていた。けど、それって全然サーフミュージックなんかじゃない。だいたい洋楽はトランジスタラジオで聴くみのもんたの「カム・トゥギャザー」って番組が頼りで、進駐軍放送(FEN)は北京放送の電波妨害のせいか、千葉の漁師町には素直に入ってこなかった。だからどうしても音楽の嗜好や指向の選択肢は限られていたのだ。それが1971年、15歳の春に地元の漁師町からサーフィンの本場、安房鴨川のサーフィン文化に飛び込むと、すぐにサーフィンに欠かせない音楽があることを知った。当時鴨川でサーフィンをしていた鴨川少年団に、サンタナを教え込まれたのだ。曲は「Oye Como Va/僕のリズムを聞いとくれ」。連中はまだ13歳の中学生のくせして、(4行しかないけど)その歌詞を諳んじていた。
'71年の初夏、鴨川にNONKEYサーフショップが誕生し、いろんなサーファーが集まって来ていた。音楽もレコード盤という形で入ってきて、鴨川少年団はもろにその洗礼を受けた。その洗礼を浴びせたのが、オーナーの野村アキラさんだった。鴨川のサーフショップには、冬の暗黒時間を生き残るための道具ギターが置いてあって、アキラさんはそこでボブ・ディランなんかを弾いていた。アキラさんはサーフィンのスタイルからして恰好いい。ちょっと無茶なところもあるけど、少年団には優しいし、なによりパッチワークのジーンズを穿いていた。そのパッチワーク・ジーンズの出どころがニール・ヤングだった。
「4 way streetのジャケットの端っこに、幽霊みたいなのがいるだろう? あれがニール・ヤングだよ」だから自分も'73年の全日本サーフィン選手権には、パッチワークのジーンズで出かけた。もっとも自分のジーンズはほころびだらけで、パッチワークなしでは穿けなかったのだ。当時ミッキー川井さんの奥様がチャンズリーフというサーフィン用のトランクスを作っていて、そこで余った生地をいくらでももらえた。それを持って帰り、空中分解寸前のジーンズに縫い付けパッチワークとした。仕上がったジーンズを目にした野村さんに「おめえ、それで外に出るなよ」と言われたけど、他に穿くものがなかったので、そのまま大会会場の銚子・君ヶ浜に向かった。全日本に連れて行ってくれたのは鴨川の先輩、香取のカッちゃん。クルマは丸っこいホンダシビック、カーステにはニール・ヤングの「ハーベスト」のカセットがすでに入っていた。なにしろ世界の流行が遅れていっぺんに入ってくるので、「アフター・ザ・ゴールドラッシュ」も「ハーベスト」もほぼ同時期に聴くことができた。その2枚以前のニール・ヤングについての知識は皆無。CSN&Y(クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング)だって、アキラさんの話だけでしか知らない存在だった。
ニール・ヤングの音楽は、'73年のサーファーに自然と受け入れられていた。自分もそう。なんか雰囲気がいい。「ハーベスト」のジャケットもいいな~と感じた。いま聴くと困ってしまうような曲もあるけど、当時はこの次はこの曲と、全部が必要だった。なかでも「ハート・オブ・ゴールド」は開放弦のコードが多く、身近な感じではまった。でも音痴な人間にとって、出だしのアイウォナリブ~の“リブ~”の音階が全然わからなくて、サーフィンの波待ちの最中に大声で練習した。なにしろ平日の昼間は人がいないことが多かったので、気の済むまで練習できた。
その後マイナーな日本のサーフィン時代が終わっていくのと同時に、ニール・ヤングを聴くのもやめた。SURFER誌の広告で見た新譜のオン・ザ・ビーチもいいかな? と期待したけど、わかったのはサーフィンを取り巻く環境も含め、誰も'73年のままではなくなっていたってゆうこと。だから自分が聴くニール・ヤングは、2枚のアルバムだけ。もっとも現在、その全部を好んで聴けるわけではないけど、「テル・ミー・ホワイ」や「アウト・オン・ザ・ウィークエンド」はオールタイム、逆に言えばそれ以外の曲はもう聴かないってことか? そんなんで自分から聴きはしないけど、今でも不意に「ハート・オブ・ゴールド」が流れてくると、瞬時に'73年の自分に引き戻される。
あのアルバムが発売された時期は知らないけど、'73年の夏、ニール・ヤングの音楽で過ごすことができたのは、なんて言うか……。銚子のピーナツ畑の自動販売機でハイシー(オレンジ味飲料)を買って、香取のカッちゃんのシビックに戻ったとき、ちょうど「ハーベスト」が流れていた。その数時間前に全日本のジュニアクラスで優勝したばかりだったし、サーファーとしてこれ以上の人生があるなんて、とうてい考えられなかった。まだ“old enough to repay”でも“young enough to sell”でもなかったのだから。
【Profile】
抱井保徳
1956年南房総出身、現在は稲村ケ崎在住。日本のプロサーフィン黎明期から数多くのタイトルをショートとロングで獲得する一方、ウィンドサーフィンやSUPから木片、ボディサーフィンまで美しく波に乗る。日本を代表する名シェイパーでもある。
【SURF MUSIC makes us "SALTY"バックナンバー】
#01 -潮騒香る音楽に身を委ね踊るとき-
#02 -ショートボード革命とサイケデリックサウンドの相関図-
#03 -世界中で無限の変貌を遂げ始めたフラワーチルドレンの種-
#04 -制限なき選択ロッキン・イン・ザ・フリー・ワールド-
#05 -サーファーだけが知るアンダーグラウンドという美学-
#06 -コラム:DICK DALE/ヘビー“ウェット”ギターサウンズ-
#07 -コラム:KALAPANA/アイランド“クール”ブリージング-
#08 -コラム:CALIFORNIA BLUE/西海岸からの潮風-
#09 -コラム:REBEL MUSIC/反骨心の魂を追う、サーフミュージックの側面-
#10 -コラム:SURFER' S DISCO & AOR/サーファーズ・ディスコとAOR-
#11 -コラム:ON THE RADIO/そこでしか聴けない音楽が、サーファーを魅了する-
#12 -アンドリュー・キッドマンが語るサーフミュージック-
>>特集の続きは本誌でご覧ください。
「SALT…Magazine #01」 ¥3,300
本誌では24ページにわたってSURF MUSICを特集。“サーフィンと音楽”の蜜月関係から、アンドリュー・キッドマンのインタビュー、抱井保徳さんのコラムなど掲載。潮の香りをまとったソルティな音楽は、サーフィンライフを豊かにしてくれる。
photography _ Aition
TAG #Andrew Kidman#SALT#01#SURF MUSIC#SURF MUSIC makes us "SALTY"#サーフミュージック
海と繋がり、自分の中の好きや小さなときめき、そしていい波を追い求めてクリエイティブに生きる世界中の人々、“Ocean People”を紹介する連載企画。彼らの人生を変えた1本の波、旅先での偶然な出会い、ライフストーリーをお届けします。
Profile
Kristin Elena Clark クリスティン・エレナ・クラーク
アメリカ出身、インドネシア・バリ在住のサーファー、モデル。現在はウルワツのそばで家族4人で暮らしている。
あなたのことについて教えて
生まれはパキスタンで、幼い頃から両親の仕事の関係でジャカルタやケニアなど、さまざまな都市を転々としてきた。最終的にアメリカ・オレゴン州に落ち着き、20歳までそこで過ごしていた。大学を中退してワーキングホリデーでオーストラリアへ渡り、バイロンベイやボンダイエリアで暮らすことに。距離が近いこともあり、その頃からバリに頻繁に訪れるようになった。2016年、母がバリに家を建てたのをきっかけに、私もバリに移住を決意したの。
バリで現在の夫に出会い、今は1歳半と5歳の息子たちとウルワツで暮らしている。子育てしながら、たまにモデルの仕事も。10年前のウルワツは、地元のご飯屋さんが数軒あるだけの小さなサーフタウンだったけど、今ではジムやサウナ、おしゃれなカフェが増え、若いママたちの姿もよく見かけるようになった。
バリでの子育ては良い面と悪い面もあるけど、私は海のそばで、素晴らしいサーファーたちに囲まれながら、のびのびと子どもを育てられていることに感謝している。
サーフィンを始めたきっかけ、お気に入りのスポット、次に行きたい場所は?
約8年前、初めてサーフィンをしたのは意外にもベトナムだった。その経験がきっかけでサーフィンに夢中になり、オーストラリアやバリでは、時間があればとにかく海へ向かっていた。お気に入りのスポットはウルワツの「Temples」。メインのピークより少し先にあるこのポイントには、良いスウェルが入るとプロサーファーたちも集まり、バレルのセッションになることも。顔なじみのメンバーも多く、雰囲気も最高。ここへ行けば、海の中で仲間たちとキャッチアップできるのも楽しみのひとつ。
次に訪れたい場所は、インドネシアの離島とモロッコ。
子どもが生まれてからは、サーフィンが私の生活にとってこれまで以上に欠かせないものになった。手が空いた時間を見つけて、潮の満ち引きやスウェルに合わせながらベストなスポットを選び、海へ向かう。そこで過ごす時間は、まさに私だけのひととき。日常の出来事を少しだけ忘れて、“今この瞬間”を心から楽しむことができる。
子どもたちも海が大好きで、周りの友達にもサーファーが多いから、自然な流れでサーフィンを始めてくれたら嬉しいな。いつか、一緒にラインナップに並ぶ日が来るのを楽しみにしている!
海、自然との関係を言葉で表すなら?
帰る場所。多くのサーファーにとってそうであるように、私も数日間海に入らないと、どこか物足りなさを感じる。「海に帰らなきゃ! 海に戻りたい!」そんな思いが日常的によく湧き上がる。今一緒に時間を過ごしている友達も、みんな海を通じて出会った大切でクールな仲間たち。サーフィンがすべてをつなげてくれて、これなしの生活なんて考えられない。
あなたの生活に欠かせない3つのものは?
サーフィン、家族、美味しい食べ物!
20歳の頃の自分に、何かアドバイスをするとしたら?
30歳になった今、これまでの自分を振り返ると、特に計画を立てずに思うままに生きてきた。でも、その中にはいつも明確な意図があった。そして気づけば、欲しいものや住みたい場所、理想のライフスタイルが自然と実現していた。「何かやりたい!」と情熱が湧いたときこそ、そのエネルギーに従うのが一番だと思う。
text:Miki Takatori
20代前半でサーフィンに出合い、オーストラリアに移住。世界中のサーフタウンを旅し現在はバリをベースに1日の大半を海で過ごしながら翻訳、ライター、クリエイターとして多岐にわたって活動中。Instagram
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