10年単位でサーフィンの歴史を振り返るTHE HISTORY of SURFING。最終回となる第6回目は、2000年代以降をピックアップ。迎えた新世紀。コンペシーンでは、ウェイン・バーソロミューがASP会長に就任すると、Jベイやチョープーなど世界中のAクラスの波でサーキット・イベントを開催するドリーム・ツアーがスタートする。
2002年からツアーに完全復帰したスレーターはアンディ・アイアンズやミック・ファニングといった好敵手と対峙しながらも、2011年までに5回もワールドタイトルを手中におさめ前人未到の記録を打ち立てる。その後はジョン・ジョン・フローレンス、ブラジリアンの連覇へと時代は移行していく。
サーフボードデザインでは多様化が進み、ショートボードの対極にオルタナティブボードが登場、ずっとスラスター一辺倒だったマーケットは賑やかになった。
2010年以降に目立ったシェイパーには、ダニエル・トムソンやヘイデン・コックスがいる。フィッシュを研究したダニエルは独自に解釈したプレーニングハル理論による革新的なデザインで注目され、ファイヤーワイヤーやスレーターのボードブランドでいくつものモデルを作っている。ヘイデンは、史上もっとも売れたといわれるオールラウンドなショートボード、ヒプト・クリプトで名を馳せた。
フィッシュのムーブメントも機は熟していた。そこに『シードリング』の制作者トーマス・キャンベルの『スプラウト』(2004年)が公開されると、全世界でフィッシュ・ブームが爆発する。
この時期シーンで目立つ存在だったオルタナ系サーファーのなかには元コンペティターも少なくなく、彼らのサーフィンのレベルは群を抜いていた。また同じころ2度目のロングボードのワールドタイトルを獲得したジョエル・チューダーも元祖レトロボード・マニアとして、ネオクラシックに続くこのレトロ志向の流れを牽引した。こうして二極化していたショートボードとロングボードのあいだに、フィッシュを入口としたオルタナティブという大きな第三のカテゴリーが出来上がっていく。
サーフィン業界全体の空気や潮流も21世紀に入ってから変わってきた。ひとつの大きな潮目は、パタゴニアのサーフィン界への参入だろう。
環境意識が社会へ浸透し始めた時期とも重なる。アウトドアのイメージが強かった同社だが、ファウンダーのイヴォン・シュイナードはコアなサーファーで、ブランドにはジェリー・ロペスやレラ・サン、ミッキー・ムニョスたちとのリッチなバックストーリーがあった。パタゴニアがサーファーたちの潜在的な環境意識を呼び起こすと、環境問題に向き合うことはサーファーの責務だという空気が少しずつ醸成されていく。
2010年代以降、サーフィンは見る競技として急速に一般化する。金融危機のあおりで低迷していた大手サーフブランドとともに苦境に立っていたASPは、買収されてWSLに組織替えした。
WSLのSNSでのファン数は激増し、2017年にはWSLのデジタル・ビデオ・コンテンツがNFLとNBAに次いでアメリカで3番目にオンライン視聴されたスポーツになった。その後サーフィンは商業化したオリンピックの競技種目となって世界中の衆目にさらされていく。
どんなにサーフィンが進化し取り巻く環境が発展してビジネス化しようとも、海のリズムを捉え波のエネルギーに運ばれていくときの、サーファーだけが知っている得も言えぬ神聖な感覚は不変である。
text_Takashi Tomita
SALT...#01「THE HISTORY of SURFING」より抜粋
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2020年、滋賀県出身の20代サーファーによって結成された「グンジョウマル・レディオ」。彼らは改装したワゴンに乗り込み、日本各地のサーフスポットを巡りながら、旅先での記録を『Keep on...』という雑誌にして出版している。その誕生のきっかけとなったのは10月に訪れた北海道。すし詰めのワゴン車に乗り込み、苫小牧から東へ。襟裳岬、フンベの滝を経由しながら知床まで、2週間弱の長旅だった。
「男10人の大所帯だったので、さすがに全員で車内泊はできんくて、何人かはテント。ある日の夜は、寒すぎてサーフブーツを履いて寝ました。そんな感じの貧乏旅行だったけど楽しかった。海に入ったらアザラシに出くわしたり、見たことないくらい綺麗な夕焼けに遭遇したり、いい景色をいっぱい見られたこともいい思い出。極めつけに、帰りに寄った室蘭で生涯で一番いい波に乗れました」
大変なこともあったけれど、いい波にあたればすべて忘れられる。サーファーってアホだと思わされるけれど、アホになるから楽しめることもある
北海道斜里町の「天へと続く道」といわれる場所。男10人、安飯も安宿も、みんなで経験したら、かけがえのない思い出になった
旅の終盤、東側を走行中に撮った1枚。この辺り一帯どこもいい波が割れていた。どこで入るか悩みながらクルマを走らせる
雑誌の販売にあたり、意識したことがひとつあった。それは、“手売り”にこだわったこと。リリース当時はコロナ禍。人と人との繋がりが希薄になり、世の中が暗く澱んでいたときだ。
「感染対策を万全にして、来られる人だけに来てもらえるように呼びかけてローンチパーティをしました。それでもたくさんの人が来場してくれはったんです。僕らもこの旅を知ってもらうんじゃなしに、雑誌をきっかけに会いに来てくれた人たちと、ただ話をしたかった」
来場者の反応に自信をつけた彼らは、その後も宮崎や島根、湘南などさまざまな場所に出向くように。訪れたのは、どこもグッドスウェルで知られるサーフスポットばかり。そして、その旅の様子はもちろんVol.2以降の『Keep on...』にまとめられている。
右上から時計回りに_沖縄の旅で。急にサイズアップした無人のポイントでサーフィンを楽しんだ/『KEEP ON…』Vol.1のリリースパーティのときにみんなでサーフィン。ボードの長さも、厚さも、形もそれぞれ。みんなちがって、みんないい/定例イベント「THE DOGGIE DOOR」開催時に撮影。場所は滋賀県彦根のマーレーキッチン/北海道トリップ最初の朝、綺麗な波が割れるノーバディのポイントを発見! 極寒の夜を乗り越えた先に見つけた忘れられない景色/北海道釧路。スケートでトンネルを滑走していると「日本一の夕陽」が差し込んできた/バンドの十八番は「ロングヘアでロングライド」。偶然か必然か、メンバーの髪は押し並べて肩まで長い/瀬長島からのサンセット。旅の醍醐味はこういう風景に出逢えるところ/2023年9月、宮崎に来日していたオージーサーファー3人とセッションし、そのま数日かけて滋賀まで旅をした
photography _ Keisuke Nakamura text _ Ryoma Sato
「SALT…Magazine #01」 ¥3,300
グンジョウマル・レディオの旅のモットーは、“小さな波も幸せも、しっかりキャッチ”。時代の波に逆らうように、リアルで人と繋がり、ノンフィクションを生きる。そんな彼らの次の行き先は、果たして……。続きは本誌をチェックしてください。
TAG #GUNJOUMARU RADIO#SALT…#01#サーフトリップ#ビーチライフ
5月下旬、過去10年で最高のスウェルがインドネシアに入ってきた。多くのプロサーファーがインドネシアのそれぞれの島へストライクミッションを行うなか、メンタワイへのトリップを計画していた9人の女性サーファーたちがいた。まさかこのタイミングで最高のスウェルが入ってくるとは! 強運を持ち合わせた9人のガールズサーファーたちの、泣いて笑ってサーフィンし尽くした12日間の旅の記録。
5月の終わりのある日、9人のグループチャットは、スウェルの大きさ、方向、風、すべてがインドネシアにとって完璧な予報と、盛り上がっていた。普段使っているボードより長めのサーフボード、無数のワックスとビキニ、予備のリーシュが詰まった大きなボードバッグを抱え空港を歩いていると、同じような大きなボードバッグを持ったガールズサーファーたちがいた。彼女たちが今回の旅の仲間だと、言葉を交わさなくてもわかった。
私たち9人はボートが出航するパダンで初めて出会い、その場で意気投合した。ハワイ、フランス、カリフォルニア、バリ、オーストラリア、アイルランド、世界中のサーフスポットから集まったエネルギーに満ち溢れたメンバーたち。20代後半で友達作るのはなかなか難しいけど、サーフィンで繋がる友達は一生モノ。
目の前でブレイクする波に誰よりも早く乗りたくて、8時半にはベッドに入る生活がスタート。「モーニン〜グ!」と目をこすりながらコーヒーを啜り、暗くてよく見えない波を横目に早朝5時半から人生トーク。日焼け止めを塗りながら、ストレッチをしながら、ワックスアップしながら、ボーイフレンド、キャリア、セルフラブについて語った。サーフガイドもびっくりするほど、朝からフル回転のガールズたち!
ハイシーズン中にも関わらず、ラインナップには誰もいない日が何日もあった。これがどれだけ幸せなことか、いつも混雑した海でサーフィンをしている人ならわかるはず。まさにこれがこの旅を特別にしてくれた大きな理由だった。
女性サーファーが、体格もパワーも上回る男性と競い合って波を捕まえるのは難しい。混雑したローカルのラインナップから離れることで波の取り合いから解放され、テクニックに集中することができる。メンタワイはそれを叶えてくれる場所だ。仲間たちだけで波をシェアし、誰にも邪魔されずにチャージ! 極上のメンタワイの波にガールズみんなが恋をした。
今までサーフィンしてきたなかで、一番大きくてパーフェクトな波。まさにパラダイスという言葉がピッタリ! 順番に波に乗り、誰かが良い波に乗ると歓声と興奮の声が海に響き渡る。ただただ純粋に波に乗ることを楽しみ、自然と一体になるサーフィンのあるべき姿。旅の後半、自分たちのサーフィンがどれだけ上達したかビデオでチェック。セットの波にテイクオフをする、チューブに入る、スタイリッシュなターンをする……それそれが目標として掲げていたことが、この12日間で実現した。
朝くたくたになるまでサーフィンをして、朝食をとった後2〜3時間昼寝をして、夕方になったらサンセットサーフィン。どこを見渡してもココナッツの木があり、透き通った海と真っ白なビーチが視界いっぱいに広がる。このパラダイスに、年に一度は帰ってきたいと思った。
電波も入らないインド洋のど真ん中で仲間との会話を楽しみ、お腹いっぱいサーフィンをして、体力的にも精神的に良い意味で疲れ果てていた。当分サーフィンしなくていい状態になっていたが、翌日スウェルが到着したバリに戻ると、やっぱりボードを片手に海に走っていた。まさにサーフィン中毒。
12日間の旅が終わりボートを降りる頃にはみんな姉妹みたいに仲良くなり、お別れするのが悲しく大きなハグと共に涙が溢れた。メンタワイで築いた絆は言葉では上手く言い表せない特別なもので、このトリップは私たち9人の心の中に一生残るものになった。
text:Miki Takatori
20代前半でサーフィンに出合い、オーストラリアに移住。世界中のサーフタウンを旅し現在はバリをベースに1日の大半を海で過ごしながら翻訳、ライター、クリエイターとして多岐にわたって活動中。Instagram
湘南・茅ヶ崎から羽ばたくオリンピアン、松田詩野(TOKIOインカラミ所属)。リベンジとなる2024パリ五輪、舞台はサーフィン発祥の地であり、ビッグウェーブの聖地でもあるタヒチ・チョープー。オリンピックまで20日を切ったいま、松田が感じていることの後半をお届けします。
Q.:メンタルトレーニングはしていますか。
A.:自主的に心掛けていることはあります。勝負の世界にいるからこそ、勝ち負けに一喜一憂しすぎないようにしています。アップダウンが少ないほうが本番で力を出せると思うので。実際には難しいときもたくさんありますけど。
Q.:海に入っていない時間は何をして過ごしていますか。
身体のケアをしている時間が多いです。自分に合うオイルマッサージのお店を探して施術してもらったり。決まった場所があるわけではなく、海外遠征のときもよくリサーチしていろいろな所に通っていました。あとは家族と過ごしたり、友人とカフェに行ったり、本を読んだり……。意外と普通です(笑)。
Q.:サーフィン以外に何かスポーツはしていますか。
A.:基本的に身体を動かすことが好きなので、山に登ったり、水泳をしたり、いろいろやっています。気分が落ち込んだときはくよくよ悩むよりも、運動してすっきりするほうが好きです。
Q.:一方で読書もされると。どんな本を読んでいますか。また、よく聴く音楽があれば教えてください。
A.:最近だと「1日1話、読めば心が熱くなる365人の生き方の教科書」、「最強の身体能力 プロが実践する脱力スキルの鍛え方」などを読みました。音楽は……好きなアーティストがたくさんいて絞れないのですが、近頃はSZAの曲をよく聴いています。ヒップホップやR&Bを聴くことが多いかな。
Q.:今後、プライベートでやってみたいことはありますか。
A.:サーフィン以外ならカフェの経営をしてみたいです。それくらいカフェが好きなんですよね。来た人を元気づけたり、リラックスできる空間をつくってみたい。あとは環境問題に関心があるので、今後はそちらの勉強もしてみたいです。オリンピック会場のタヒチでも、ジャッジタワーの建設が問題になっていましたよね。サーフィンは海ありきのスポーツなので、ビーチクリーンはもちろん、そういったニュースにも関心を向けておきたいです。
Q.:素敵ですね。そのオリンピックでは金メダル獲得を目指すことになりますが、他にも具体的な目標はありますか。
A.:世界中の人に、サーフィンの魅力が伝わるパフォーマンスをしたいです。ビッグウェーブにチャージすることで「日本人の女の子でもできるんだ」ということを証明したい。それが、他の女の子の背中を押すきっかけになれば。
Q.:ありがとうございます。最後に、改めてオリンピックへの意気込みを聞かせてください。また、応援してくれている女性ファンに向けて一言お願いします。
A.:チョープーでのオリンピックはおそらく二度とないので、後悔のないように挑みたいです。私の姿を見て、同じようにオリンピックを目指す女性サーファーが増えてくれたら嬉しいです。そうでなくても「好きなことを見つけて、全身全霊で楽しむこと」を伝えられたら最高です。
photography _ Nachos text _ Ryoma Sato
SALT...#01「ROAD to OLYMPIC」より抜粋
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湘南・茅ヶ崎から羽ばたくオリンピアン、松田詩野(TOKIOインカラミ所属)。リベンジとなる2024パリ五輪、舞台はサーフィン発祥の地であり、ビッグウェーブの聖地でもあるタヒチ・チョープー。オリンピックまで残り1ヶ月。松田が感じていることを2回に渡ってお届けします。
Q.:パリオリンピック日本代表選手に内定したときの気持ちを教えてください。
A.:決まったときは素直に嬉しかったし、ホッとしました。でもすぐに、舞台であるタヒチ・チョープーをイメージして「チューブライディングのスキルを上げないと」と現実的に考えていました。
Q.:アスリートらしい切り替えの早さですね。応援してくれている方々の反応はどうでしたか。
A.:東京オリンピック出場を逃したときの悔しさを知っているだけあって、みなさん、とても喜んでくれました。とくに家族や友人、地元の方々の応援が練習やトレーニングの励みになっていたので、少しだけ恩返しができたのかなと。
Q.:実際にタヒチに渡ってチョープーにもチャージされていましたね。手応えはありましたか。
A.:はい。初のチョープーで、しかも波が大きかったので恐怖はありました。でも、そういう感情を持てたこと自体がいい経験になったと思います。現地のコーチから地形やバレルの種類などローカル・ナレッジもシェアしてもらえたので、五輪を見据えた練習になったと思います。
Q.:インドネシアにも何回か訪れていますよね。
A.:ウルワツやニアスにはパワフルな波が多いので何回も行きました。でも、一番記憶に残っているのはスンバワです。同じクオリティのマシンウェーブがブレイクしているので、やりたい技を何回もできていい練習になりました。
Q.:チョープー用にサーフボードのセッティングも変えていますか。普段は5'6″のボードに乗っているそうですが。
A.:今回の遠征で一番使ったレングスは6'1″で、いつもより長めです。掘れた大波に対応できるように普段乗っているボードより重くして、幅も狭くしてもらいました。ロッカーも少し強めです。フィンセッティングはクアッドがよかったかな。チューブの中でもグン! と加速してくれました。
Q.:では、オリンピックに向けて取り組んでいるトレーニングはありますか。
A.:大波に挑戦することになるので、まずは高強度の有酸素運動で体力をつけています。あと意識しているのは、ケガをしにくい体づくり。以前に肩の亜脱臼を経験したので……。スポンサーである「森永製菓inトレーニングラボ」でメニューを組んでもらっています。
Q.:他にも行っていることはありますか。
最近は初心に戻って、パドルトレーニングにもチャレンジしています。プールにサーフボードを浮かべて、ゴムチューブに引っ張られながら漕いだり……。トレーナーの意見を聞いて、フォームを改善することもあります。
Q.:そんなことまで! たしかに、パドリングを人から教わることってありませんよね。
A.:そうなんです。だからこそ指摘されて初めて分かることもあって新鮮です。おかげで肩が疲れにくくなったので、サーフィンのパフォーマンスにも繋がっていると思います。
photography _ Nachos text _ Ryoma Sato
SALT...#01「ROAD to OLYMPIC」より抜粋
後半へ続く……
10年単位でサーフィンの歴史を振り返るTHE HISTORY of SURFING。第5回目は1990年代をピックアップ。意気軒昂で高揚感に満ちていた'80年代が嘘のように、'90年代になると得体の知れない焦燥感のようなものが漂い始める。流れてくる音はひずんだグランジロック。サーファーの装いもオーバーサイズで色味は一気にアースカラーに変わった。
ロングボードの復活によって'60年代のレジンティントやピグメント、ピンラインといったカラーラミネートの技術も蘇った。美しくポリッシュされたロングボードは再び人気となり、マシーンメイドが導入された時代にハンドメイドの美学が再び脚光を浴びることとなった。
この時代はビッグウェーブ・サーフィンも再び盛り上がりをみせる。ワイメア、マーヴェリックス、ジョーズ、コルテス・バンクなどへのチャージも盛んになり、ビッグウェーバーという肩書きのプロも増えた。
'92年にはバジー・カーボックスやレアード・ハミルトン、ダリック・ドーナーらがジェットスキーで牽引し波に乗るトーイン・サーフィンを実験的に始めると、それまでパドルでは乗れなかった巨大な波にも挑めるようになる。フットストラップ付きのトーイン用の短いボードはディック・ブルーワーらによって開発が進められていく。
'90年の主役といえばニュースクールと呼ばれる新進気鋭の勢力で、彼らはテイラー・スティールの初ビデオ作品『モメンタム』(1992年)のメインキャストであったことから、モメンタム世代とも呼ばれている。
ニュースクールのなかでも突出した存在だったのがケリー・スレーターだ。'92年、20歳にして初のワールドタイトルを史上最年少で獲得。翌年は膝の怪我もありタイトルをデレック・ホーに譲ったが、'94年~'98年までは5年連続でワールドチャンピオンの座をキープし続け、完全にワールドツアーを支配した。なかでも'95年はパイプライン・マスターズで優勝し、トリプルクラウンでも優勝、最後の最後でワールドタイトルをもぎとり、サーフィン史上初のハットトリックを達成、その後の偉業の礎を築いた。
ロキシーガールは現象だった。サーフィンの世界でこれほどセンセーショナルで一世を風靡した女性ブランドがあっただろうか。
アイコンとなったのは、ほとんどが20歳前の若いモデルたち。ロングボードでサーフィンを楽しむ彼女たちに、ハイパフォーマンスや勝ち負けといったコンペティションが内包する試練や過酷さはいっさい感じられない。彼女たちはスイムウエアにヤシの葉のハットやフラのラフィアスカートを身につけ、ダイヤモンドヘッドをバックに太陽の下で永遠に終わらない夏の波をシェアライドした。
この時代の後半に発表されたふたつの映像作品がカタルシスとなった。アンドリュー・キッドマンの『リトマス』とトーマス・キャンベルの『シードリング』だ。
両先に共通するのは、この時代に流行したプロモーション主導のビデオ作品などにはない強いメッセージ性と、静寂感のある映像と郷愁感漂うバックトラックの秀逸さ、そして何よりコンペや商業色から完全に切り離されたサーフィンの崇高さを讃える独自の世界観を持っている点である。
全文は本誌もしくは電子書籍でお楽しみください。
次回は、2000年代以降をピックアップします。
text_Takashi Tomita
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10年単位でサーフィンの歴史を振り返るTHE HISTORY of SURFING。第4回目は1980年代をピックアップ。ベトナム戦争終結後もしばらく鬱屈として重たかった'70年代の空気は'80年代になると一変、軽薄という言葉がぴったりなほど軽くなった。しかし一方では、ボードデザインやマニューバー、カルチャー、ファッション、マーケティングが急速に進歩した時代でもあった。
1981年からロングビーチでASR(アクションスポーツ・リテーラー)トレードショーが始まって以降、爆発的な第二次サーフィンブームの追い風もあってインダストリー全体が上昇気流に乗っていた。とくに大手サーフ系アパレルブランドの成長が著しい。業界を潤した巨額のマネーはコンペティションにも流れ、'80年代の初頭に比べて末には賞金額が10倍近くに増えている。
1983年、イアン・カーンズが新組織ASP(アソシエーション・オブ・サーフィン・プロフェッショナルズ)を設立し、IPSに代わってワールドツアーをオーガナイズするようになる。
ASP設立を機に、年間ツアーの最終盤にハレイワ、サンセット、パイプラインでの3つのイベントで構成されるトリプルクラウンがスタート。これはワールドチャンピオンシップに次いで栄誉あるタイトルであり、初のタイトルを手にしたのは地元ハワイのマイケル・ホーだった。
'80年代はじめ、多くのコンペティターのあいだではツインフィンがスタンダードだった。しかしツイン神話はサイモン・アンダーソンの革新によって終わりを告げる。
'81年のツアーを3戦スキップし、スラスターの開発に勤しんだサイモン。同年のケイティン・プロアマでは結果が出なかったものの、18フィートの巨大なベルズでその真価が発揮された。不安定なライディングをするツインフィン・サーファーと'70年代風のビッグターンを見せるシングルフィン・サーファーとはまったく異次元の、ドライブが効いたマニューバーを6'6"のスラスターで見せつけ、見事に優勝。続くコークコンテストでも優勝し、12月にはスワローテールの7'6"スラスター・ミニガンでパイプライン・マスターズに挑み、ここでも優勝を飾る。
'80年代といえば、比類なきスタイリストとしてサーフィンというスポーツに多大な影響を与えたトム・カレンを忘れてはいけない。
1982年、18歳になる直前にプロに転向。翌年8位、その翌年は4位と順調にレイティングを上げ、1985年にワールドチャンピオンに輝く。1976年にサーキットが設立されて以来、ワールドタイトルを手にする初めてのアメリカ人男性サーファーとなった。翌年連覇を果たすも、その後レイティングは下降、一度ツアーから姿を消すが、再び1990年に復帰すると3度目のワールドタイトルを獲得する。
派手な色彩と先鋭化するショートボードの世界に支配されていたように見える'80年代。しかしこの時代に、世の中から消えてなくなったと思われていたロングボードが密かに戻ってくる。
1986年、ASPにロングボード部門ができ、何の因果か20年前にロングボードにとどめを刺したナット・ヤングが初代チャンピオンとなった。彼は1990年までの5年間に4度もタイトルを手にし、リバイバル・ムーブメントをリードする立役者となる。
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