#KALAPANA

  • 【特集】SURF MUSIC makes us "SALTY" #10 -コラム:SURFER' S DISCO & AOR/サーファーズ・ディスコとAOR
  • 2024.12.03

海と対峙するとき、音楽は円滑油のような効果を発揮する。サーフィンと音楽が絡み合い起こる化学反応。多くの先人たちの言葉を交え時空に綴れ織りを描くとき、サーファーとダンスの関係が見えてくる。


サーファーズ・ディスコ

サーファーがディスコに大挙して押し寄せたのは1977年。メディアは以前とは違うダンスフロアを“サーファーズ・ディスコ”と呼び始めた。その中心は東京なら六本木スクエアビルか赤坂ビブロス、大阪ならミナミと心斎橋に集中していた。それ以前はコンポラスーツを着て数人で同じステップを決めるのが主流だったが、サーファーが押し寄せると選曲はモータウン系ソウルから、ソフトでミディアムテンポのAOR、フュージョン、盛り上がりにはファンクからロックに変貌を遂げた。ラリー・バートルマンが映画『サタデーナイト・フィーバー』のサントラばかり聴いていた時期で、波の上をダンスフロアで舞うように踊った。
1979年発刊のオーストラリアSurfing Word誌が実施したプロサーファーへのアンケート「お気に入りのミュージックは?」では、ローリング・ストーンズ、サンタナ、ホルヘ・サンタナ、デヴィッド・ボウイ、ブルース・スプリンスティーン、パブロ・クルーズなど、これだけ見ても圧倒的にロックが多く、ダンス系もアース・ウィンド&ファイアー、ビージーズ、ブラザーズ・ジョンソンなどがランクインしていた。バテンスはLAのディスコで羽目を外し、コンテストで得た賞金を全て充てても足りないほど店を破壊した逸話は有名だ。規模こそ小さいが、夏だけ限定オープンの新島のディスコでも暴れた。

東京では、金曜は六本木のメビウス、土曜は赤坂のビブロス、略して“金メビ土ビブ”という奇妙な現象も起こった。シックの「フリーク・アウト」~フランス・ジョリの「カム・トゥ・ミー」~カーティス・ブロウの「ザ・ブレイクス」~クイーンの「アナザー・ワン・バイト・ザ・ダスト」~ローリング・ストーンズの「ミス・ユー」~ロッド・スチワートの「アイム・セクシー」~ドゥービー・ブラザーズの「ロング・トレイン・ラニン」~パブロ・クルーズの「アイ・ウォント・ユー・トゥナイト」、力尽きる頃にチークタイムを2曲、再びロドニー・フランクリンの「ザ・グルーブ」~ボズ・スキャッグスの「ロウダウン」と続き夜は更けていった。


AOR

アダルト・オリエンテッド・ロック、通称AORは和製英語だ。1976年頃から流行り始めサーファー好みのサウンドに定着した。大人向けロックはポップスとは微妙に違い、少し背伸びして洒落てみたいサーファーのスタイルに響いた。ハードでシンプルなロックではなく、ソフト、ロマンティック、アーバンといった曖昧なくくりにジャズ、ソウル、ボサノバなどのエッセンスを加えたカクテルである。その代表格はボズ・スキャッグス、ボビー・コールドウェル、ホール&オーツ、ジェイ・ファーガソン、さらにネッド・ドヒニーのアルバム「ハード・キャンディ」のジャケットは、青い空とパームツリーの下でシャワーを浴びる、まさにカリフォルニアだ。波とサウンドに貪欲な大阪のサーファーから火が付いた名盤である。それから12年後の「ライフ・アフター・ロマンス」はサーフボードを膝の上に載せた姿で、サーファーの心を掴み続けた。

 レコード店の存在も大きかった。ディスコなら六本木の「ウィナーズ」、ウエストコーストなら原宿「メロディ・ハウス」、大阪アメリカ村の路上ではアメリカ帰りの日本人がレコードを売っていた。地方のサーファーは東京や大阪へ来たついでにレコード店巡りをしたり、仙台、静岡、金沢、高知、宮崎、沖縄などにも一早く輸入盤レコードを販売する店が現れた。ジャケ買いするリスナーにとってホルヘ・サンタナのデビューアルバムは衝撃だった。何といってもカルロス・サンタナの弟、これだけで買わないわけにはいかなかった。さらに高中正義のセイシェルズをカバー、このアルバムもサーファー限定でブレイクした。同様の理由でファニア・オールスターズの「リズム・マシン」もサーファーに売れた。
当時のサーフィン雑誌には毎号レコードを紹介するページがあり、ウィルソン・ブラザース、エアプレイ、ロビー・デュプリー、クリストファー・クロスなど高い確率でアダルトなロックがピックアップされ、多くのサーファーが参考にしていた。ディスコからAORへ、サーファーは弾けながら大人のふりをした時代である。

【SURF MUSIC makes us "SALTY"バックナンバー】
#01 -潮騒香る音楽に身を委ね踊るとき-
#02 -ショートボード革命とサイケデリックサウンドの相関図-
#03 -世界中で無限の変貌を遂げ始めたフラワーチルドレンの種-
#04 -制限なき選択ロッキン・イン・ザ・フリー・ワールド-
#05 -サーファーだけが知るアンダーグラウンドという美学-
#06 -コラム:DICK DALE/ヘビー“ウェット”ギターサウンズ-
#07 -コラム:KALAPANA/アイランド“クール”ブリージング-
#08 -コラム:CALIFORNIA BLUE/西海岸からの潮風-
#09 -コラム:REBEL MUSIC/反骨心の魂を追う、サーフミュージックの側面-

>>特集の続きは本誌でご覧ください。

「SALT…Magazine #01」 ¥3,300

本誌では24ページにわたってSURF MUSICを特集。“サーフィンと音楽”の蜜月関係から、アンドリュー・キッドマンのインタビュー、抱井保徳さんのコラムなど掲載。潮の香りをまとったソルティな音楽は、サーフィンライフを豊かにしてくれる。


photography_Mitsuyuki Shibata text_Tadashi Yaguchi

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  • 【特集】SURF MUSIC makes us "SALTY" #09 -コラム:REBEL MUSIC/反骨心の魂を追う、サーフミュージックの側面-
  • 2024.11.21

海と対峙するとき、音楽は円滑油のような効果を発揮する。サーフィンと音楽が絡み合い起こる化学反応。多くの先人たちの言葉を交え時空に綴れ織りを描くとき、サーファーとダンスの関係が見えてくる。


デューク・カハナモクがサーフィンを世界中に伝えた40年後、サーフィンはスポーツのみならずユースカルチャーとして定着した。1950年代、アメリカでは豊かさを享受する親世代に反骨心を抱いたビートニクが登場。地下室で悶々とジャズを聴く黒ずくめの集団や、ビーチで乱痴気騒ぎをするグループなどが社会問題となった。またエルビス・プレスリー、チャック・ベリー、ジェリー・リー・ルイスなど、黒人のブルースを進化させたロックンロールの台頭も危険視された。戦争を体験した親たちにとってみれば、腰をくねらせ、速い単純なビートで冒涜感だらけの歌詞など、子供たちに聴かせたくないと思うのは当然のことだった。
この反骨心溢れるサウンドとライフスタイルこそ、レベル・ミュージックの始まりだ。ヘビーなギターインストルメンタルは、1965年ベトナム戦争が勃発するとヒッピーに生まれ変わり、'70年代にはニューエイジ、'80年代にはパンク、更にレゲエ、ダブ、ヒップホップと形を変えながら、無軌道な動きを繰り返す。サーファーという種族は二者一択ではないオルタナティブな生き方が基本で、多数派に迫ると真逆に走る傾向がある。音楽もサーフボードも同じである。

海から離れたニューヨークではヴェルヴェット・アンダーグラウンド、デトロイトではイギー・ポップやMC5が破壊的なロックを奏でたが、そんな爆音を好むサーファーも少なくなかった。今でこそサーファーはアスリートの一員とされオリンピック種目にもなったが、1950年代からサーフィンは不良の代名詞的存在で、それは世界共通だった。オーストラリアでもサーファーは、ホットロッドやバイカーと対立していた。
1976年カリフォルニア・マリブで活動を開始したサーフパンクスは鮮烈だった。世界各地のポイントでローカリズムが強くなるなか「ここは俺たちのビーチだ、よそ者は帰れ!」と叫び、夢のカリフォルニアを破壊した。ハワイ・オアフ島ノースショアではブラックショーツとオージーが対立したように、プロサーフィン組織の設立を境に波乗りは競うものではないというアンチコンテストサーファーも声を上げた。まさにジェリー・ロペスが提唱したソウルサーフィンである。

世界同時多発的に反逆的サウンドを好むサーファーが増え、ポリス、クラッシュ、ラモーンズ、テレビジョン、パティ・スミス、トーキング・ヘッズさらにガレージバンドも注目された。ゴリゴリのパンクからニューウェイブに移行する頃、クイックシルバーはエコー・ビーチシリーズをリリース、それ以前のボードショーツとは全く違うデザインをワールドワイドに展開した。
ダニー・ノック、マービン・フォスター、リチャード・クラム、マット・アーチボルトらは、アグレッシブなスラッシュ系サーフィンを進化。テイラー・スティールはサーフフィルムの概念を覆すビデオシリーズ『モーメンタム』でパンク、グランジ、メタル系バンドを起用し、サーフミュージックの常識を覆した。常に次を求める放浪癖は尽きない。

【SURF MUSIC makes us "SALTY"バックナンバー】
#01 -潮騒香る音楽に身を委ね踊るとき-
#02 -ショートボード革命とサイケデリックサウンドの相関図-
#03 -世界中で無限の変貌を遂げ始めたフラワーチルドレンの種-
#04 -制限なき選択ロッキン・イン・ザ・フリー・ワールド-
#05 -サーファーだけが知るアンダーグラウンドという美学-
#06 -コラム:DICK DALE/ヘビー“ウェット”ギターサウンズ-
#07 -コラム:KALAPANA/アイランド“クール”ブリージング-
#08 -コラム:CALIFORNIA BLUE/西海岸からの潮風-

>>特集の続きは本誌でご覧ください。

「SALT…Magazine #01」 ¥3,300

本誌では24ページにわたってSURF MUSICを特集。“サーフィンと音楽”の蜜月関係から、アンドリュー・キッドマンのインタビュー、抱井保徳さんのコラムなど掲載。潮の香りをまとったソルティな音楽は、サーフィンライフを豊かにしてくれる。


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  • 【特集】SURF MUSIC makes us "SALTY" #08 -コラム:CALIFORNIA BLUE/西海岸からの潮風-
  • 2024.11.21

海と対峙するとき、音楽は円滑油のような効果を発揮する。サーフィンと音楽が絡み合い起こる化学反応。多くの先人たちの言葉を交え時空に綴れ織りを描くとき、サーファーとダンスの関係が見えてくる。


アメリカ西海岸こそ、日本人サーファーにとって手が届く憧れの地だった。ハワイは修行の場、カリフォルニアはファンな波、そしてファッションやサウンドといったサーフカルチャーの中心だった。青い空と乾燥した気候、ハンティントンやマリブに降り注ぐ太陽は別格に感じられていた。
1965年ベトナム戦争に突入すると、若きアメリカンは反戦活動を行動で示した。サンフランシスコを目指し、全米中からラブ&ピースを合言葉に集った歴史がある。反体制的なカウンターカルチャーはヒッピー思想として世界に伝わり、サーファーと深く交わっていく。サーフィンは自由の象徴として、デューク・カハナモクが世界に拡散した歴史と重なる。サーファーがロックに傾倒したのはそのためだ。カリフォルニアでアンチコンテスト派が多数だったのは、サーフィンは競技ではない、順列を争うべきではないという考え方が強かったからである。

ミュージックシーンでもフェスは無料であるべきと捉えられていた。実際に史上最初で最大のフェス「ウッドストック」も入場券が販売されたが、大部分は壁を壊して無料で入っている。出演したジェファーソン・エアプレイン、サンタナ、ジミ・ヘンドリックス、CCRの楽曲は多くのサーフフィルムでも使用されていた。
不思議なことに'69年を境にミュージックシーンは大きな変化を遂げる。ビートルズの解散、ローリング・ストーンズのコンサートでの殺人事件などで音楽業界は大きく揺れ動き、映画『イージー・ライダー』でヒッピーの夢が砕かれ、サーフボードはショートボードが圧倒的に主流となった。

1971年にドゥービー・ブラザーズ、イーグルス、リンダ・ロンシュタット、翌年にはスティーリー・ダン、ジャクソン・ブラウンがデビュー。時代はサイケデリックからニューエイジ、レイドバックへ移行した。1975年ベトナム戦争が終焉を迎えると、サーフィンの世界も大きく形態を変えていく。プロサーフィン組織が設立されたのは翌'76年、日本では第2次サーフィンブームが到来した。この世代のサーファーにとってサーフミュージックといえば西海岸であり、ジミー山田やテッド阿出川等は多種多様なサーフカルチャーをアメリカから持ち帰ったが、なかでもレコードは日本人サーファーに大きな影響を与えた。
1966年にTDKがカセットテープ販売をスタートすると'70年代にはラジカセが大ブレイク、さらにカーステレオの普及で好みの音楽を車中で聴くという文化が芽生えた。1979年にソニーがウォークマンを発売すると、海外サーフトリップに欠かせない存在となる。ソニーは防水ウォークマンを発売するほど、音楽関連産業はサーファーをターゲットにした。サーフィン専門誌やPOPEYE、Fineにレコード会社の広告が多かったのも頷ける。サーファーはヘビーなロックではなく、ライトで洒落たサウンドを好んで聴いた。潮の香りとアコースティックには相通じるものがあり、それは今も変わりない。

【SURF MUSIC makes us "SALTY"バックナンバー】
#01 -潮騒香る音楽に身を委ね踊るとき-
#02 -ショートボード革命とサイケデリックサウンドの相関図-
#03 -世界中で無限の変貌を遂げ始めたフラワーチルドレンの種-
#04 -制限なき選択ロッキン・イン・ザ・フリー・ワールド-
#05 -サーファーだけが知るアンダーグラウンドという美学-
#06 -コラム:DICK DALE/ヘビー“ウェット”ギターサウンズ-
#07 -コラム:KALAPANA/アイランド“クール”ブリージング-

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  • 【特集】SURF MUSIC makes us "SALTY" #07 -コラム:KALAPANA/アイランド“クール”ブリージング-
  • 2024.11.08

海と対峙するとき、音楽は円滑油のような効果を発揮する。サーフィンと音楽が絡み合い起こる化学反応。多くの先人たちの言葉を交え時空に綴れ織りを描くとき、サーファーとダンスの関係が見えてくる。


カラパナが結成されて50年。彼らこそ日本に“サーフロック”ブームをもたらし、定着させたグループである。同じハワイ出身のヴォーカルデュオ「セシリオ&カポノ」や西海岸の「パブロ・クルーズ」もブームの中にいたが、日本のファンは「カラパナ」のローカルカラーに親しみを感じ、愛した。そもそもカラパナを日本にもたらしたのはハワイ帰りのサーファーたちだったのだ。

1975年にリリースされたデビューアルバムがサーフショップでヘビロテされているのを知ったトリオレコードは、デビューとセカンドアルバムを日本でリリース。哀愁を帯びたメロディとマラニ・ビリューの潮焼けした歌声と美しいハーモニー、「ナチュラリー」や「愛しのジュリエット」などが連日ラジオから流れ大ヒット。雑誌POPEYEやFineが毎号のようにカラパナを取り上げると、サーファーから陸(おか)サーファーまで幅広く浸透した。

1977年に初来日を果たし、会場となった中野サンプラザにはハワイ出身の大関・高見山が駆けつけるなど盛り上がったが、メンバーは慣れない寒さと大雪に見舞われ風邪をひき、絶不調だった。翌年にはサーフィン映画『メニー・クラシック・モーメンツ』のオリジナル・サントラ盤をリリース。この頃からバンドの二枚看板のひとり、リードギターのDJプラットをフィーチャー。リズムを強調したよりロック色の濃いバンドカラーを打ち出すようになった。

カラパナを知らない世代は、ハワイのバンドといえばウクレレ中心のハワイアンを想い起こすかも知れないが、カラパナはウエストコースト、AOR、フュージョン・ファンク色が強いバンドである。ちなみに当時のカラパナはカセットの販売が好調だったが、理由は車中ですぐに聴けたから。海まで距離のある内陸サーファーにとって車中の音楽は欠かせず、カーオーディオには金を注ぎ込んだ。

初来日でのハイライトは、『メニー・クラシック・モーメンツ』のショーン・トムソンのシークエンスが映し出された瞬間である。曲は「キャン・ユー・シー・ヒム」。ショーンはオフザウォールの中をエビのようにしなりながらアップスンし、「俺の姿が見えるかい?」とばかりのライディングに大歓声が飛び交った。カラパナは地元ハワイと日本では大成功した半面、本国アメリカでは今一つ売れず、マーケットを日本に絞り込んだ。'80年代に入ると杉山清貴と共演するが、それを迎合と考えたコアなサーファーたちは離れていった。しかしファーストからサード、そしてメニー・クラシック・モーメンツの4枚は、サーファーにとって時代を超越した名盤である。

【SURF MUSIC makes us "SALTY"バックナンバー】
#01 -潮騒香る音楽に身を委ね踊るとき-
#02 -ショートボード革命とサイケデリックサウンドの相関図-
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#04 -制限なき選択ロッキン・イン・ザ・フリー・ワールド-
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#06 -コラム:DICK DALE/ヘビー“ウェット”ギターサウンズ-

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