海と対峙するとき、音楽は円滑油のような効果を発揮する。サーフィンと音楽が絡み合い起こる化学反応。多くの先人たちの言葉を交え時空に綴れ織りを描くとき、サーファーとダンスの関係が見えてくる。
カラパナが結成されて50年。彼らこそ日本に“サーフロック”ブームをもたらし、定着させたグループである。同じハワイ出身のヴォーカルデュオ「セシリオ&カポノ」や西海岸の「パブロ・クルーズ」もブームの中にいたが、日本のファンは「カラパナ」のローカルカラーに親しみを感じ、愛した。そもそもカラパナを日本にもたらしたのはハワイ帰りのサーファーたちだったのだ。
1975年にリリースされたデビューアルバムがサーフショップでヘビロテされているのを知ったトリオレコードは、デビューとセカンドアルバムを日本でリリース。哀愁を帯びたメロディとマラニ・ビリューの潮焼けした歌声と美しいハーモニー、「ナチュラリー」や「愛しのジュリエット」などが連日ラジオから流れ大ヒット。雑誌POPEYEやFineが毎号のようにカラパナを取り上げると、サーファーから陸(おか)サーファーまで幅広く浸透した。
1977年に初来日を果たし、会場となった中野サンプラザにはハワイ出身の大関・高見山が駆けつけるなど盛り上がったが、メンバーは慣れない寒さと大雪に見舞われ風邪をひき、絶不調だった。翌年にはサーフィン映画『メニー・クラシック・モーメンツ』のオリジナル・サントラ盤をリリース。この頃からバンドの二枚看板のひとり、リードギターのDJプラットをフィーチャー。リズムを強調したよりロック色の濃いバンドカラーを打ち出すようになった。
カラパナを知らない世代は、ハワイのバンドといえばウクレレ中心のハワイアンを想い起こすかも知れないが、カラパナはウエストコースト、AOR、フュージョン・ファンク色が強いバンドである。ちなみに当時のカラパナはカセットの販売が好調だったが、理由は車中ですぐに聴けたから。海まで距離のある内陸サーファーにとって車中の音楽は欠かせず、カーオーディオには金を注ぎ込んだ。
初来日でのハイライトは、『メニー・クラシック・モーメンツ』のショーン・トムソンのシークエンスが映し出された瞬間である。曲は「キャン・ユー・シー・ヒム」。ショーンはオフザウォールの中をエビのようにしなりながらアップスンし、「俺の姿が見えるかい?」とばかりのライディングに大歓声が飛び交った。カラパナは地元ハワイと日本では大成功した半面、本国アメリカでは今一つ売れず、マーケットを日本に絞り込んだ。'80年代に入ると杉山清貴と共演するが、それを迎合と考えたコアなサーファーたちは離れていった。しかしファーストからサード、そしてメニー・クラシック・モーメンツの4枚は、サーファーにとって時代を超越した名盤である。
【SURF MUSIC makes us "SALTY"バックナンバー】
#01 -潮騒香る音楽に身を委ね踊るとき-
#02 -ショートボード革命とサイケデリックサウンドの相関図-
#03 -世界中で無限の変貌を遂げ始めたフラワーチルドレンの種-
#04 -制限なき選択ロッキン・イン・ザ・フリー・ワールド-
#05 -サーファーだけが知るアンダーグラウンドという美学-
#06 -コラム:DICK DALE/ヘビー“ウェット”ギターサウンズ-
>>特集の続きは本誌でご覧ください。
「SALT…Magazine #01」 ¥3,300
本誌では24ページにわたってSURF MUSICを特集。“サーフィンと音楽”の蜜月関係から、アンドリュー・キッドマンのインタビュー、抱井保徳さんのコラムなど掲載。潮の香りをまとったソルティな音楽は、サーフィンライフを豊かにしてくれる。
photography_Bruce Usher text_Tadashi Yaguchi
TAG #KALAPANA#SALT#01#SURF MUSIC#SURF MUSIC makes us "SALTY"#サーフミュージック
海と対峙するとき、音楽は円滑油のような効果を発揮する。サーフィンと音楽が絡み合い起こる化学反応。多くの先人たちの言葉を交え時空に綴れ織りを描くとき、サーファーとダンスの関係が見えてくる。
今から80年さかのぼった1945年、第2次世界大戦の戦勝国であるアメリカは好景気に沸いていた。経済が豊かになれば親や教師に反抗する若者も増える。「既成概念を打ち破れ!」は古今東西を問わず若者の合言葉である。1950年代のアメリカのユースカルチャーにはサーフィンとオートバイという武器があり、理由もなく反抗することが生き甲斐だった。重くて扱いにくいバルサからウレタンへとフォームが進化し、サーフボードは身近なビークルとして手に入るようになる。サン、サーフ、ビーチに吸い込まれるように内陸から若い男女が集い、ボールルームでは毎週末サーファーが身体を激しく揺さぶり熱狂した。その様子は当時ストンプと呼ばれた。
このブームの火付け役はディック・デイルで、彼自身も優れたサーファーであった。実際のサーフィンから体感する高揚感を再現しようと、エレキギターをマシンガンのように速弾で掻き鳴らすと、オーディエンスは頭のてっぺんから足のつま先まで痺れた。その噂は瞬く間に広がり、ディック・デイルは地元サンディエゴのヒーローへと昇華し、シングル「レッツ・ゴー・トリッピン」は地元の若者向けラジオ局が挙ってオンエアし、全米で大ヒットした。1961年の夏の出来事である。さらに、'63年フェンダー社が新しいアンプ、ツインリバーブを発表するとスプリング式リバーブは限界点まで深く響き、星の数ほどギターインストルメンタルバンドがデビューする。ザ・シャンテイズは「パイプライン」、ザ・サーファリーズは「ポイント・パニック」、「ワイプ・アウト」などのスマッシュヒットを連発。南半球のシドニーではジ・アトランテックスがデビュー、同じくオーストラリアのデンバー・メンの「サーフサイド」は、全豪チャート1位を記録した。因みにサーフィンとは無縁ながら、英国でもザ・シャドウズはギターインストルメンタルバンドとして大成功を収めた。
バンド名と曲名からサーフィンをイメージしつつ、ヴィジュアルでもアルバムのジャケット全面にビッグウェーブやサーファーの写真が用いられた。この風潮は日本でもエレキブームとして吹き荒れるが、多くの学校でエレキ禁止令が施行されたように、このカルチャーは危険と認識された。それでもザ・ベンチャーズの来日を目の当たりにした寺内タケシなどは、日本独自のサウンドを確立している。その始まりは、ディック・デイルに他ならない。彼の高速ハードピッキング奏法は、80年経った今も進化し続けている。
【SURF MUSIC makes us "SALTY"バックナンバー】
#01 -潮騒香る音楽に身を委ね踊るとき-
#02 -ショートボード革命とサイケデリックサウンドの相関図-
#03 -世界中で無限の変貌を遂げ始めたフラワーチルドレンの種-
#04 -制限なき選択ロッキン・イン・ザ・フリー・ワールド-
#05 -サーファーだけが知るアンダーグラウンドという美学-
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海と対峙するとき、音楽は円滑油のような効果を発揮する。サーフィンと音楽が絡み合い起こる化学反応。多くの先人たちの言葉を交え時空に綴れ織りを描くとき、サーファーとダンスの関係が見えてくる。
日本国内にもプロミュージシャン級のサーファーは数多くいるが、あくまでも趣味の範疇と深入りしない傾向が強く、仲間内で楽しければ良しとされている。ディック・デイルの出現からヴェンチャーズ、ジミ・ヘンドリックス、ジョー・サトリアーニ、未来に羽ばたくギターリストの中にはサーフィンを取り上げた楽曲も少なくない。ジミヘンでさえ'67年モンタレーのフェスでサーフミュージックは死んだと唱えたが、その反面アルバムの「サード・ストーン・フロム・ザ・サン」では水中から見えるサウンドこそ、サーフミュージックと語っている。またサーファーたちが集い企んだマウイ島のフェスにも参加し、その映像はDVD化されている。奇妙なヒッピーたちのシーンの合間に、デヴィッド・ヌヒワのサーフシーンが重なる。もちろん音楽はジミヘンである。ここにもまた、アメリカの徴兵を逃れた全米チャンプのラスティ・ミラーが一役以上を担っていた。時代を経て、カリフォルニア・ラグーナビーチでブラザー&シスターが主催した「ムーンシャイン・フェスティバル」、バイロンベイの「ブルース&ルーツ・フェスティバル」然り、その始まりの中心にはサーファーたちが深く関わっていたのも事実である。またこれもサーファーらしいのだが、創設者たちはフェスが巨大化すると潔く後継者に任せ、海に戻ってしまう傾向がある。金は必要だが金に縛られたくない、そんなアンダーグラウンドの美学を受け継いでいるのだろう。
プロサーフィンのコンテストでも、前夜祭やファイナルパーティでのライブは恒例だ。'60年代はギターインストルメンタルバンド、'80年代はパンク系、21世紀に入るとアコースティック系が主流となる。大手サーフブランドも積極的に独自のアーティストをプロモーションするようになった。クイックシルバーはジャック・ジョンソン、ビラボンはドノヴァン・フランケンレイターをメジャーに押し上げた。彼らのような世界的ブレイクこそ果たせなかったが、リップカールは奇才デレク・ハインドをプロデューサーに据え、ピコを自社イベントやビデオで起用しアコースティックブームにアバンギャルド的要素を取り入れた。日本国内のサーフイベントでもケイソン、東田トモヒロ、デフテック、平井大などのライブアクトは人気が高い。彼らは音楽同様に熱心なサーファーである。
今日、サーファーが好んで聴く音楽は過去と比べようがないほど多様化している。選択肢は増えたが、古今東西を問わず他と異なるアンチの姿勢だけは変わらない。最先端を走るサーファーが密かに聴いているサウンドがメジャー化すると、それまでとは真逆の方向に転換する法則がある。アンダーグラウンドに美学を覚える習性は、ミッキー・ドラが生み出した反骨精神の賜物なのだろうか。
潮の香りをまとったソルティな音楽は、サーフィンライフを豊かにしてくれる。リズムとメロディに身を寄せ波の上を踊る、ここにサーフミュージックの原点がある。
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photography_Jeff Devine text_Tadashi Yaguchi
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海と対峙するとき、音楽は円滑油のような効果を発揮する。サーフィンと音楽が絡み合い起こる化学反応。多くの先人たちの言葉を交え時空に綴れ織りを描くとき、サーファーとダンスの関係が見えてくる。
21世紀に突入すると、サーフボードがトライフィン一辺倒からオルタナティブに舵を切ったように、サーフミュージックも多様化する。カリフォルニアのトーマス・キャンベルは、神童ジョエル・チューダーをフューチャーした『シードリング』と『スプラウト』で来るべき時代を予言した。シドニーのアンドリュー・キッドマンは徹底的にサウンドにこだわり、自らギターを奏で歌い『リトマス』を完成させた。ジェフリーズベイのパーフェクションのハイラインを滑る奇才デレク・ハインドとギャラクシー500のノイジーなサウンドの融合は、いま観てもドラマティックだ。
サーファーと音楽の蜜月関係は、'60年代初頭のギターインストルメンタルバンドがアメリカ西海岸、オーストラリアで数多くのアルバムを発売したコマーシャリズムの台頭が顕著だが、'71年トッププロのコーキー・キャロルがハワイアンテイスト満載のアルバム「レイドバック」、同年ラグーナビーチのホンクスが「ファイブ・サマー・ストリーズ」のサウンドトラックをリリースしたことが一石を投じた。これらは今ではCD化され、名作として聴き続けられている。ワールドチャンピオンながらスポンサーのロゴなしのボードでコンテストに出場したヒーロー、トム・カレンも本格的にレコーディングを行いCDをリリース、またケリー・スレーター、ロブ・マチャド、ピーター・キングが結成したバンド「ザ・サーファーズ」のアルバムも話題になった。
2001年には歴史上、過去最大のセールスを記録するアコースティックサウンドが世界中のサーファーを熱狂させた。その立役者はハワイのジャック・ジョンソンである。世界中がジャックに続けと「自称サーファー兼ミュージシャン」が出現したが、消えるもの早かった。ジャックが広く受け入れられたのは、原点でもあるハワイのビーチボーイズたちが、ウクレレとスラッキーギターで独自の世界を創造したのと重なったから。ワイキキのビーチボーイズという文化の出現は1950年代に遡るが、彼らが奏でた音楽は決してコマーシャルナイズされたものではなく、むしろ録音すらされることなく自然と今に轢き継がれている。音楽を創造するには膨大なエネルギーが必要とされるが、商い目的はなく音楽でサーフィンを表現しようと試みるサーファーが増えたのは時代の継承に他ならない。ギターとサーファーとの関係は定かではないが、楽器で唯一抱き包み奏でることが出来るのはギターだけである。気軽に演奏でき、持ち運びも苦にならない。サーフミュージックの主流にギターが存在するのも、手に届く楽器であるのが最大の理由であろう。ジョー・サトリアーニの「サーフィン・ウィズ・ジ・エイリアン」で聴けるライトハンド奏法と高速オルタネイトピッキングも、サーフィン脳に重く深く響く。
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海と対峙するとき、音楽は円滑油のような効果を発揮する。サーフィンと音楽が絡み合い起こる化学反応。多くの先人たちの言葉を交え時空に綴れ織りを描くとき、サーファーとダンスの関係が見えてくる。
'70年代に入るとその勢いは更に加速する。サーファーは心の平和と精神的反抗を表現する音楽を好んで聴き、サーフムービーでは著作権など関係なしにロックが使用された。ジミ・ヘンドリックス、サンタナ、スティーヴ・ミラー・バンド、フリートウッド・マック、ウイッシュボーン・アッシュ、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズなど、数百万枚を売るアーティストの楽曲を自由に使えた時代である。サーフィン映画が上映される会場は常に満員で、さながらロックコンサートのように盛り上がった。ハワイのビッグウェーブや未知なるモーリシャスやインドネシアの波は、サーファーの視線を釘付けにした。
さらに原点回顧主義、オリジナル音源で映画を完成させるという至難の技を成し遂げたのがオーストラリアの『モーニング・オブ・ジ・アース』だ。自国の無名なバンドとシンガーソングライターの楽曲はライディング映像と完全にシンクロし、歌詞が映像のすべてを語った。全編通じてナレーションは一切なしという奇抜なアイデアこそ、オーストラリアがサーフィン大国アメリカ西海岸に対抗する姿勢だった。ベトナム戦争への徴兵命令が下されるオーストラリアでは、本国アメリカ以上に反戦意識が高く、『モーニング・オブ・ジ・アース』のサウンドトラックは全豪1位にランクアップした。1972年のことである。サーファーとフラワーチルドレンと称されたヒッピーカルチャーが交差した歴史的瞬間である。
ベトナム戦争が終焉を迎えた1975年、コマーシャリズムがソウルサーフィンにメジャー参入を試み、その翌年プロサーフィンが設立。満を期すかのように、ビル・デラニー監督の『フリーライド』が劇場公開された。オープニングの超スローモーションのチューブシーンは、オフザウォールを突っ走るショーン・トムソン。サウンドと映像が見事に重なり、すべてのサーファーが魅了された。この映画の主人公は南アフリカのショーン・トムソン、オーストラリアの破天荒なウェイン・ラビット・バーソロミュー、ツインフィンで4年連続世界一に輝いたマーク・リチャーズで、時代のヒーローとして崇められた。この流れに大胆不敵な下剋上を仕掛けたのがニュースクール世代である。ロングヘアとサイケデリック的エアブラシ、ヒッピー文化が混在するライフスタイルを否定するかの如く、サウンドはアグレッシブなパンクやグランジ、キース・へリング風ストリートアートに移行する。その代表選手はケリー・スレーター、ロブ・マチャド、シェーン・ドリアンなど、スラッシャージェネレーションである。
サーファーの描くライン、ライフスタイルの変化は音楽にも反映された。'80年代中頃にはサーフィンと同じくくりでスケートボード、スノーボードにもサーフブランドが参入。その始まりはテイラー・スティールの『モーメンタム』シリーズで、与えた影響力は計り知れない。パンク、メロコア、グランジの激しいリズムに同化した映像編集は、ミュージックビデオのように受け入れられ、サブライムやジゲンズは伝説として語り継がれている。サーフィン映画がフィルムからビデオ化されると、巨匠ジャック・マッコイはオーストラリア先住民族のバンド、ヨスー・インディを起用してマイナーなバンドを一気にメジャーに押し上げた。
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海と対峙するとき、音楽は円滑油のような効果を発揮する。サーフィンと音楽が絡み合い起こる化学反応。多くの先人たちの言葉を交え時空に綴れ織りを描くとき、サーファーとダンスの関係が見えてくる。
サーファーが好んで聴く音楽は今も昔も自己の限界をより高く、より速く、肉体に伝達させる効果がある。ディック・デイルの激しいギターサウンドはサーファーの肉体を高揚させ、自分の限界を超越した波に挑ませる効果がある。
ザ・ビーチ・ボーイズのメローなハーモニーはサーファーの心を明るく照らし多幸感を深めた。映画『フリーライド』のオープニング、パブロ・クルーズの「ゼロ・トゥ・シックスティ・イン・ファイブ」を聴き、多くのサーファーは勢いをつけてパドルアウトする。ドアーズの「ライダー・オン・ザ・ストーム」は落雷音と共に始まり、ジャングルサーフには欠かせない古典的ナンバーとなった。ジャック・ジョンソンのアルバム「ブラッシュファイアー・フェアリーテイルズ」は、ハワイから世界中のサーファーの愛聴盤になった。ニール・ヤングは絶対的古典、フォーエバーである。
音楽は脳に効き身体と精神をハイにし、またリラックスさせてくれる。海に行くとき、またサーフトリップに音楽が欠かせないアイテムなのも頷ける。例えばそれぞれの旅にリンクする想い出のアルバムがある。『アジアン・パラダイス』を撮影したサーフィンフォトグラファーのディック・ホールは「'76年6月のバリはリトル・リバー・バンド、同年冬のノースショアはフリートウッド・マックに導かれた」と回想する。ジェリー・ロペスはウォークマンからタジ・マハルを脳に叩き込みパダンパダンに向かった。水の上でダンスを躍るのに音楽は欠かせない刺激剤である。
時代と地域によってサーフミュージックは異なるが、1964年に劇場公開された『エンドレス・サマー』は、ディック・デイルが完成させたギターインストルメンタルをソフィスティケートしたザ・サンダルズを起用。地球上の未知なる波を追い求めるハリウッドドキュメンタリーは今も忽然と輝く金字塔を打ち立てた。そんな平和だった'60年代前半とは裏腹に、'65年からベトナム戦争が勃発すると若いサーファーは反戦運動の真っ只中に追い込まれロックに傾倒した。ある日突然届く1枚の徴兵制が若者の人生を180度変えてしまう。この最悪な時期に多くのアメリカ人サーファーはベトナム行きを嫌い、ハワイやメキシコ、カリブ海へ逃避行した。これを当時の若者たちは「正しい逃避」と呼んだ。
戦勝国の豊かさを満喫した親世代との間に大きなジェネレーションギャップが生じると、個々の価値観と生き方までを変えてしまった。親世代が愛したフランク・シナトラよりも、サイケデリックロックを選択したのだ。サイケを直訳すれば脳に優しいである。その潮流は'67年に勃発したショートボード・レボリューションにも重なる。まさに多様化するロックと同じ歩みを描いていた。
マリブタイプのロングボードは一夜にして7'6"までカットされると、丸いノーズはピンに変貌。更に'69年のオーストリアでは、テッド・スペンサーのホワイトカイトと命名された5'2"のエッグが限界を超えた。ワールドチャンピオンのナット・ヤングにして「短すぎて波に追いつけない」と言わしめた。キング・クリムゾンがデビューアルバム「クリムゾンキングの宮殿」をリリースした年と重なるのは偶然ではない。これを境にロックとサーフボードは複雑化し始めた。
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