Profile
笹子 夏輝 - Natsuki Sasako -
1994年神奈川県茅ヶ崎市生まれ、鎌倉市在住。18歳から25歳までのプロ活動を経て、フリーサーファーに転向。現在はキャプテンズヘルムに勤務する傍ら、サーフブランド〈DANBUOY〉をハンドリング。次世代のプロサーファーへ道を示すべく、日々活動を続けている。
2019年にプロを引退後、フリーサーファーやブランドプロデューサーとして、ネクストステージで活躍する笹子夏輝。競技時代とは一転、オルタナティブなサーフィンで見る者を魅了する彼が、移住や旅、人との出会いを経てたどり着いた“思いがけない発見”とは。
「今日は陽射しが暖かいけど、風がちょっと冷たいですね」
ビーチでの撮影後、インタビューのために入った鎌倉のカフェで、夏輝が静かにそうこぼした。「そんな日にごめんね」と恐縮すると、彼は白い歯を見せて「おかげでコーヒーが美味い」。こちらに気を遣ってくれたのか、それとも素の感想なのか。いたずらっぽい笑顔からはうまく読み取れなかったが、夏輝は子どもの頃からそんなふうに、どこかミステリアスな魅力を持っていた。
プロを退いたのが25歳。以降、フリーサーファーになった彼は、数年前、生まれ育った茅ヶ崎を離れて鎌倉に移り住んだ。なるほど、茅ヶ崎で彼の姿を見なくなったわけはそういうことか。でも、いったいどうして?
「特に理由はないんですよね。強いていうと、新しい世界をのぞいてみたかったから」と言うと、夏輝はコーヒーで唇を湿らせてから続けた。「会社の上司が近所に住んでいるんですよ。その生き方に影響されて、というのも大きかったかもしれない」
東京・千駄ヶ谷のセレクトショップに勤め出したのが27歳。少し前までプロサーファーだった夏輝にとって湘南と都内の往復生活はストレスフルにも思えたが、「見方を変えればチャンスだった」という。
「この際だからいろいろ学ばせてもらおうと思って。お店の業態的にサーフィン以外の商品ラインナップも豊富で、スノーやキャンプなどの業界にも関わりやすかったんです。そこで感じたのは、“同じアウトドアなのに、カルチャーが全く違う”ということでした」
幼い頃から親しんできたサーフィンから離れることでたどり着いた境地。すると、普段から何気なくまとっていた洋服や装飾品の一つひとつに、歴史や文化が詰まっていることに気づいた。
「この前、カリフォルニアを旅したとき、サーフィンついでに古着屋へ寄ってみたんです。お店に入ってみたら、サーフィンとまた違った面白さがあって。うまく言葉にできないけど、全てがかっこよかった。そういう経験をしたおかげで、最近は洋服をちゃんと選んで着るようになりました。サーフトリップのときも、スウェットにビーサンじゃなくて、ジージャンに革靴を履くようになったんです。今は『海に出かけるときこそ決めていこう』と密かに考えています」。
>>インタビューの続きは本誌でご覧ください。
「SALT…Magazine #01」 ¥3,300
本誌では笹子夏輝のインタビューを全文掲載。昨年、同世代のフリーサーファー小林直海と立ち上げた冬のサーフギアブランド〈DANBUOY〉のこだわりから、「夏輝にとって海とは?」について語ってくれています。
photography _ Pero, Shuji Nihei(surfing) text_Ryoma Sato
TAG #CAPTAINS HELM#DANBUOY#SALT…#01#ビーチライフ#笹子夏輝
海と繋がり、自分の中の好きや小さなときめき、そしていい波を追い求めてクリエイティブに生きる世界中の人々、“Ocean People”を紹介する連載企画。彼らの人生を変えた1本の波、旅先での偶然な出会い、ライフストーリーをお届けします。
Profile
Carla Rosenthal カーラ・ロゼンタル
フランス・ニース出身。現在はロンボクを拠点に生活しながらサーフィン、ガールズコミュニティの運営を行っている。
あなたのことについて教えて
生まれも育ちもフランス、地中海のそばのニースという街。幼い頃から海の近くで育ったから、子どもの頃は都会でのシティライフに憧れていた。
20代になってパリに引っ越し、そこで約3年間ほど働いた。パリは世界中から人が集まる大都市でとても魅力的な場所だけど、私には合わなかったみたい。次第に海辺での暮らしが恋しくなり、仕事を辞めてインドネシアへ2ヶ月間の旅に出ることにしたの。
インドネシアでは、ストレスのない日々と毎日気軽にできるサーフィンの生活がとても心地よく、自分にぴったりだと感じた。そして、フランスへ戻る飛行機の中で「インドネシアに移住しよう!」と決めたの。住む期間も仕事も決まっていなかったけれど、不思議と“やっていける!”という根拠のない自信があって、その直感に従った。
現在は、バリ島の隣にあるロンボク島を拠点に暮らしている。ここに住む人やコミュニティはとても温かくて、道を歩けば誰かしら知っている人に会える。ひとりだけど、ひとりじゃない——そんな言葉がぴったりな場所。
そして2023年には、「SEASTERS CLUB」というガールズサーファーのコミュニティを立ち上げた。ミートアップやグループサーフィンなどを通して、仲間同士で刺激を与え合いながら活動を続けている。
サーフィンを始めたきっかけ、お気に入りのスポット、次に行きたい場所は?
実はインドネシアに来るまでは、一度もサーフィンをしたことがなかったの。「今から始めるには遅すぎるし、体力もついていかない。サーフィンはクールな人がやるものだ」って、勝手に思い込んでいたの。でも、ロンボクでは初心者もたくさん海に入っていて、みんな笑顔で楽しそうに波に乗ってる。年齢なんて関係なく、心からサーフィンを楽しんでいる人たちに出会い、私の中のサーフィンへのイメージがガラッと変わった。いまは9’4”のロングボードに乗って、すっかりサーフィンに夢中。よく行くスポットは、ロンボクの南にある「Tanjung A'an(タンジュンアン)」という場所。ライト・レフト両方の波があり、中級者向けの波が楽しめる。あと、Ekas(エカス)もお気に入りの場所のひとつ。
次に行ってみたい場所は、ハワイ、メンタワイ、そしてモルディブ。どれも夢が広がる場所ばかり!
海、自然との関係を言葉で表すなら?
最近、サーフィンは人生によく似ているなと感じるようになった。良いセッションができる日もあれば、そうじゃない日もある。だけど、その一度のセッションに一喜一憂するのではなく、人生と同じように“サイクル”を楽しむことが大切なんだと思う。
そして海は、まるで私たちの心を映す鏡。ネガティブな気持ちを抱えて海に入ると、怪我をしたり、うまく波に乗れなかったりと、不思議とよくないことが起こる。毎回海に入るたびに、そんなことをふと気づかされる。
あなたの生活に欠かせない3つのものは?
友達、家族、サーフィン。
今後の夢や目標は?
昔はたくさん夢があったけれど、今はあまり具体的な目標を持たないようにしている。というのも、私はつい自分にプレッシャーをかけてしまうタイプだから、今は人生もサーフィンも、ただ純粋に楽しむことをいちばんの目標にしている。もちろん、いつか成し遂げたいことはたくさんある。でも今は、「If it happens, it happens(なるようになる)」がモットーかな。そんなふうに、自然体で生きていけたらと思っている。
20歳の自分に何かアドバイスをするとしたら?
たくさんのことに挑戦して、そこから自分が好きなことや情熱を持てることを見つけるのが一番大切。そして、失敗しても自分に厳しくなりすぎない。結果よりも、その過程を楽しむことを忘れないでいて欲しい。
text:Miki Takatori
20代前半でサーフィンに出合い、オーストラリアに移住。世界中のサーフタウンを旅し現在はバリをベースに1日の大半を海で過ごしながら翻訳、ライター、クリエイターとして多岐にわたって活動中。Instagram
TAG #Ocean People#カーラ・ロゼンタル#ビーチライフ#ロンボク#連載
海と繋がり、自分の中の好きや小さなときめき、そしていい波を追い求めてクリエイティブに生きる世界中の人々、“Ocean People”を紹介する連載企画。彼らの人生を変えた1本の波、旅先での偶然な出会い、ライフストーリーをお届けします。
Profile
Anna-Lena Ramminger アナ・レナ・ラミンガー
ドイツ出身26歳。現在はオーストラリア・バイロンベイを拠点にフリーランスのクリエイターとして活動している。
あなたのことについて教えて
生まれ育ちは、ドイツのウルム近くの小さな街。大学を卒業してから、ずっと「旅に出たい」という思いがあった。初めて訪れたタイで、カフェやレストランでオンラインで仕事をしている人をたくさん見かけ、それをきっかけに自分も旅をしながら働くライフスタイルが合っていると感じた。その後フリーランスでマーケティングの仕事を始めて、インドネシアのロンボクへ。ずっと夢見ていた生活が実現できてとても嬉しかったし、海の近くに住むことが自分を幸せにしてくれることにも気付いた。
ロンボクで出会った人からオーストラリアを勧められて、その後クーンズランド州のヌーサで1年過ごした。今はバイロンベイをベ拠点に、バリスタやフリーランスのフォトグラファー、ヨガのインストラクターなどをしながら生活している。インドネシアは大好きな場所だから、来年にはまた戻りたいと思っている。特にロンボクは最高の波があり、バリほど忙しくないけどおしゃれなカフェや温かいコミュニティがあって、とても気に入っている。
Annaが撮る写真はすごくシンプルだけど、見る人に何か特別な感情を与えてくれる。インスピレーションや写真を通して伝えたいことは何?
私の写真はすごくミニマルな表現が多い。日常のなにげない風景を切り取ることを大切にしていて、それは忙しい毎日の中でつい見過ごしてしまうような瞬間だったりする。特に海の風景では、太陽が水面に反射する煌めきや、波の質感を表現することを意識している。余計な色やノイズを加えず、最小限の編集でその瞬間にある美しさをそのまま伝えることを目指している。
サーフィンを始めたきっかけ、お気に入りのスポット、次に行きたい場所は?
ドイツにいた頃からサーフィンを始めていたけど、実際にサーフィンができるのは年に2週間のホリデー期間だけだった。そのためなかなか上達せず、「いつか海の近くに住みたい」という思いが強くなった。
2023年にロンボクに数ヶ月滞在したことで、ようやくサーフィンのリズムを掴むことができ、今では毎日サーフィンができる生活を送っている。バイロンベイ周辺でお気に入りのスポットは、パス、ワテゴス、レノックス。ヌーサのTea Tree Bayも、大好きなロングボードスポット。次に行きたい場所は、メンタワイとタヒチ。
海、自然との関係を言葉で表すなら?
海で過ごす時間は、まるで瞑想やセラピーのよう。「今、この瞬間を楽しむ」ことができ、どんな感情も洗い流してくれる。日常生活では常にデバイスを持ち、人とつながることが簡単になったけれど、目の前の景色や会話に100%集中できていないのも事実。でも海の中では、波待ちをしながら隣のサーファーと話したり、海から見える景色を思う存分楽しむことができる。
あなたの生活に欠かせない3つのものは?
波、旅行、家族のようなコミュニティ。
今後の夢や目標は?
今後は、自分の人生を築いていける「ベース」を見つけたい。旅をすることは大好きだけど、いつか「ホーム」と呼べる場所に落ち着きたいと思っている。また、毎日サーフィンを続けながら、フリーランスとしてしっかり独立できるよう、今後数年間は自分のスキルアップとコネクションを築くことに力を入れていきたい。
何か新しいことを始めたい人へアドバイスをするとしたら?
何かやりたいことがあれば、思い切って始めてみること。そして、「失敗しても大丈夫」と自分に言い聞かせることも大切。住む場所やキャリアなど、変化があると最初は居心地が悪く感じるかもしれないけれど、変化があるからこそ、新しい面白いことが生まれることもある。それを楽しめるようになれば、怖いものなんて何もないと思う。
text:Miki Takatori
20代前半でサーフィンに出合い、オーストラリアに移住。世界中のサーフタウンを旅し現在はバリをベースに1日の大半を海で過ごしながら翻訳、ライター、クリエイターとして多岐にわたって活動中。Instagram
TAG #Ocean People#アナ・レナ・ラミンガー#バイロンベイ#ビーチライフ#連載
海が似合う“素敵なあの人”が偏愛する、モノやコトを紹介するこの企画。今回はフリーサーファー・モデルのSENAさんに話を伺った。
Profile
SENA
湘南生まれ、湘南育ち。18歳で始めたサーフィンに熱中し、あらゆるタイプのボードに乗るフリーサーファー。現在はモデルとしても活躍中。
「僕がいちばん大事にしているのは、自由と自分の心に従うこと。オーストラリアへ行くことも、ほぼ直感で決めました」
そう話すのは、モデルとして活躍するSENAさん。大学を休学し、サーフィンのスキルアップを目指してオーストラリアへ留学。様々なビーチのそばで、誰もが羨むような1年間を過ごした。
「オーストラリアへ行った目的としては、サーフィンにもっと関わりたかったから。スキルを上げるのはもちろん、シェイプも学びたいと思っていました」。1箇所に留まらず、場所を転々としながら暮らしていたという。
「最初はゴールドコーストのサーファーズパラダイス。そのあと近くのブロードビーチ、そしてバイロンベイ。最後はバイロンの隣町のサフォクパークに一軒家を借りて、日本から一緒に来た彼女と住んでいました。
バイロンの飲食店でバイトしていたとき、お客さんとして来ていたシェイパーの方と知り合い、その方の仕事を手伝わせてもらっていました。ライダーとしてボードの乗り味をフィードバックし、一緒にアイデアを出しながらコンセプチュアルな一本を作ったり。念願だったシェイプもさせてもらい、ひとりで仕上げまでできるようになりました」
「休みの日はずーっと海にいました。朝起きたらすぐに食べ物を用意して海に行き、とりあえずサーフィン! 波が良くなかったら上がって、ビーチでリラックス。気がつくと仲良くなった子が集まってきて、みんなでワイワイ盛り上がって。そんな最高な毎日を過ごしていました」
「オーストラリア人はとにかくフレンドリーで、良くも悪くも我が強い(笑)。でも、そんなところがすごく魅力的でした。みんな自分の意見を持っていて、怯むことなくアウトプットするんですよね。だからこそ、周囲の意見にも素直に耳を傾けられる。それってすごく自由だし、格好いいなって。日本の周囲に気を遣う文化も素晴らしいけれど、こういう海外のスピリットの方が自分には合っている気がします」
湘南生まれの彼が本格的にサーフィンを始めたのは、意外にも大学生の頃だった。
「小さい頃から野球少年だったんです。高校生までは野球ひと筋で、ひたむきに努力してました。高校最後の大会で全力を出し尽くして、十分にやりきったなと。これからは自分がやりたいことにチャレンジしようと思い、サーフィンを始めました」
それからはサーフィンにのめりこみ、ショートとロング両方のコンテストに出場するまでの実力をつけた。しかし、今は競うサーフィンに全く興味がなくなり、ボードも定まっていないという。
「サーフィンは競うよりも、自由に波を楽しむ方が僕には向いていて。その日の波によってショートだったりロングだったり、ボードを変えて楽しんでいます。人と一緒で波にも個性があって、同じものはない。乗り方も決まりはないんだから、自由に楽しみたい。寝そべってもいいし、永遠に波待ちしていたっていい。自分の気分によって楽しむことができるのも、サーフィンならではだなって思うんです。オーストラリアで経験した自由とサーフィンの本質。体現者として、これからは自分が発信していきたいと思っています」。
text _ Miri Nobemoto
TAG #Ami Angel#ハワイ移住#ビーチライフ#素敵なあの人の偏愛事情
海と対峙するとき、音楽は円滑油のような効果を発揮する。サーフィンと音楽が絡み合い起こる化学反応。多くの先人たちの言葉を交え時空に綴れ織りを描くとき、サーファーとダンスの関係が見えてくる。
自分にはサーフミュージックなんて1968年まで存在してなかった。それ以前、5才上の兄がビーチボーイズの音楽付きサーフィン動画番組を観ていたのは覚えているが、サーフィンを始めた頃はまだ、グループサウンズや作詞家先生が作詞して作曲家先生が作曲、それをプロの歌手が立派に謳いあげる……だったような気がする。だからサーフィンと出合い物心がついてくると、サーフィンの影にはカーペンターズの「クロース・トゥ・ユー」や、サイモン&ガーファンクルの一連のヒット曲がつきまとっていた。けど、それって全然サーフミュージックなんかじゃない。だいたい洋楽はトランジスタラジオで聴くみのもんたの「カム・トゥギャザー」って番組が頼りで、進駐軍放送(FEN)は北京放送の電波妨害のせいか、千葉の漁師町には素直に入ってこなかった。だからどうしても音楽の嗜好や指向の選択肢は限られていたのだ。それが1971年、15歳の春に地元の漁師町からサーフィンの本場、安房鴨川のサーフィン文化に飛び込むと、すぐにサーフィンに欠かせない音楽があることを知った。当時鴨川でサーフィンをしていた鴨川少年団に、サンタナを教え込まれたのだ。曲は「Oye Como Va/僕のリズムを聞いとくれ」。連中はまだ13歳の中学生のくせして、(4行しかないけど)その歌詞を諳んじていた。
'71年の初夏、鴨川にNONKEYサーフショップが誕生し、いろんなサーファーが集まって来ていた。音楽もレコード盤という形で入ってきて、鴨川少年団はもろにその洗礼を受けた。その洗礼を浴びせたのが、オーナーの野村アキラさんだった。鴨川のサーフショップには、冬の暗黒時間を生き残るための道具ギターが置いてあって、アキラさんはそこでボブ・ディランなんかを弾いていた。アキラさんはサーフィンのスタイルからして恰好いい。ちょっと無茶なところもあるけど、少年団には優しいし、なによりパッチワークのジーンズを穿いていた。そのパッチワーク・ジーンズの出どころがニール・ヤングだった。
「4 way streetのジャケットの端っこに、幽霊みたいなのがいるだろう? あれがニール・ヤングだよ」だから自分も'73年の全日本サーフィン選手権には、パッチワークのジーンズで出かけた。もっとも自分のジーンズはほころびだらけで、パッチワークなしでは穿けなかったのだ。当時ミッキー川井さんの奥様がチャンズリーフというサーフィン用のトランクスを作っていて、そこで余った生地をいくらでももらえた。それを持って帰り、空中分解寸前のジーンズに縫い付けパッチワークとした。仕上がったジーンズを目にした野村さんに「おめえ、それで外に出るなよ」と言われたけど、他に穿くものがなかったので、そのまま大会会場の銚子・君ヶ浜に向かった。全日本に連れて行ってくれたのは鴨川の先輩、香取のカッちゃん。クルマは丸っこいホンダシビック、カーステにはニール・ヤングの「ハーベスト」のカセットがすでに入っていた。なにしろ世界の流行が遅れていっぺんに入ってくるので、「アフター・ザ・ゴールドラッシュ」も「ハーベスト」もほぼ同時期に聴くことができた。その2枚以前のニール・ヤングについての知識は皆無。CSN&Y(クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング)だって、アキラさんの話だけでしか知らない存在だった。
ニール・ヤングの音楽は、'73年のサーファーに自然と受け入れられていた。自分もそう。なんか雰囲気がいい。「ハーベスト」のジャケットもいいな~と感じた。いま聴くと困ってしまうような曲もあるけど、当時はこの次はこの曲と、全部が必要だった。なかでも「ハート・オブ・ゴールド」は開放弦のコードが多く、身近な感じではまった。でも音痴な人間にとって、出だしのアイウォナリブ~の“リブ~”の音階が全然わからなくて、サーフィンの波待ちの最中に大声で練習した。なにしろ平日の昼間は人がいないことが多かったので、気の済むまで練習できた。
その後マイナーな日本のサーフィン時代が終わっていくのと同時に、ニール・ヤングを聴くのもやめた。SURFER誌の広告で見た新譜のオン・ザ・ビーチもいいかな? と期待したけど、わかったのはサーフィンを取り巻く環境も含め、誰も'73年のままではなくなっていたってゆうこと。だから自分が聴くニール・ヤングは、2枚のアルバムだけ。もっとも現在、その全部を好んで聴けるわけではないけど、「テル・ミー・ホワイ」や「アウト・オン・ザ・ウィークエンド」はオールタイム、逆に言えばそれ以外の曲はもう聴かないってことか? そんなんで自分から聴きはしないけど、今でも不意に「ハート・オブ・ゴールド」が流れてくると、瞬時に'73年の自分に引き戻される。
あのアルバムが発売された時期は知らないけど、'73年の夏、ニール・ヤングの音楽で過ごすことができたのは、なんて言うか……。銚子のピーナツ畑の自動販売機でハイシー(オレンジ味飲料)を買って、香取のカッちゃんのシビックに戻ったとき、ちょうど「ハーベスト」が流れていた。その数時間前に全日本のジュニアクラスで優勝したばかりだったし、サーファーとしてこれ以上の人生があるなんて、とうてい考えられなかった。まだ“old enough to repay”でも“young enough to sell”でもなかったのだから。
【Profile】
抱井保徳
1956年南房総出身、現在は稲村ケ崎在住。日本のプロサーフィン黎明期から数多くのタイトルをショートとロングで獲得する一方、ウィンドサーフィンやSUPから木片、ボディサーフィンまで美しく波に乗る。日本を代表する名シェイパーでもある。
【SURF MUSIC makes us "SALTY"バックナンバー】
#01 -潮騒香る音楽に身を委ね踊るとき-
#02 -ショートボード革命とサイケデリックサウンドの相関図-
#03 -世界中で無限の変貌を遂げ始めたフラワーチルドレンの種-
#04 -制限なき選択ロッキン・イン・ザ・フリー・ワールド-
#05 -サーファーだけが知るアンダーグラウンドという美学-
#06 -コラム:DICK DALE/ヘビー“ウェット”ギターサウンズ-
#07 -コラム:KALAPANA/アイランド“クール”ブリージング-
#08 -コラム:CALIFORNIA BLUE/西海岸からの潮風-
#09 -コラム:REBEL MUSIC/反骨心の魂を追う、サーフミュージックの側面-
#10 -コラム:SURFER' S DISCO & AOR/サーファーズ・ディスコとAOR-
#11 -コラム:ON THE RADIO/そこでしか聴けない音楽が、サーファーを魅了する-
#12 -アンドリュー・キッドマンが語るサーフミュージック-
>>特集の続きは本誌でご覧ください。
「SALT…Magazine #01」 ¥3,300
本誌では24ページにわたってSURF MUSICを特集。“サーフィンと音楽”の蜜月関係から、アンドリュー・キッドマンのインタビュー、抱井保徳さんのコラムなど掲載。潮の香りをまとったソルティな音楽は、サーフィンライフを豊かにしてくれる。
photography _ Aition
TAG #Andrew Kidman#SALT#01#SURF MUSIC#SURF MUSIC makes us "SALTY"#サーフミュージック
海と繋がり、自分の中の好きや小さなときめき、そしていい波を追い求めてクリエイティブに生きる世界中の人々、“Ocean People”を紹介する連載企画。彼らの人生を変えた1本の波、旅先での偶然な出会い、ライフストーリーをお届けします。
Profile
Kristin Elena Clark クリスティン・エレナ・クラーク
アメリカ出身、インドネシア・バリ在住のサーファー、モデル。現在はウルワツのそばで家族4人で暮らしている。
あなたのことについて教えて
生まれはパキスタンで、幼い頃から両親の仕事の関係でジャカルタやケニアなど、さまざまな都市を転々としてきた。最終的にアメリカ・オレゴン州に落ち着き、20歳までそこで過ごしていた。大学を中退してワーキングホリデーでオーストラリアへ渡り、バイロンベイやボンダイエリアで暮らすことに。距離が近いこともあり、その頃からバリに頻繁に訪れるようになった。2016年、母がバリに家を建てたのをきっかけに、私もバリに移住を決意したの。
バリで現在の夫に出会い、今は1歳半と5歳の息子たちとウルワツで暮らしている。子育てしながら、たまにモデルの仕事も。10年前のウルワツは、地元のご飯屋さんが数軒あるだけの小さなサーフタウンだったけど、今ではジムやサウナ、おしゃれなカフェが増え、若いママたちの姿もよく見かけるようになった。
バリでの子育ては良い面と悪い面もあるけど、私は海のそばで、素晴らしいサーファーたちに囲まれながら、のびのびと子どもを育てられていることに感謝している。
サーフィンを始めたきっかけ、お気に入りのスポット、次に行きたい場所は?
約8年前、初めてサーフィンをしたのは意外にもベトナムだった。その経験がきっかけでサーフィンに夢中になり、オーストラリアやバリでは、時間があればとにかく海へ向かっていた。お気に入りのスポットはウルワツの「Temples」。メインのピークより少し先にあるこのポイントには、良いスウェルが入るとプロサーファーたちも集まり、バレルのセッションになることも。顔なじみのメンバーも多く、雰囲気も最高。ここへ行けば、海の中で仲間たちとキャッチアップできるのも楽しみのひとつ。
次に訪れたい場所は、インドネシアの離島とモロッコ。
子どもが生まれてからは、サーフィンが私の生活にとってこれまで以上に欠かせないものになった。手が空いた時間を見つけて、潮の満ち引きやスウェルに合わせながらベストなスポットを選び、海へ向かう。そこで過ごす時間は、まさに私だけのひととき。日常の出来事を少しだけ忘れて、“今この瞬間”を心から楽しむことができる。
子どもたちも海が大好きで、周りの友達にもサーファーが多いから、自然な流れでサーフィンを始めてくれたら嬉しいな。いつか、一緒にラインナップに並ぶ日が来るのを楽しみにしている!
海、自然との関係を言葉で表すなら?
帰る場所。多くのサーファーにとってそうであるように、私も数日間海に入らないと、どこか物足りなさを感じる。「海に帰らなきゃ! 海に戻りたい!」そんな思いが日常的によく湧き上がる。今一緒に時間を過ごしている友達も、みんな海を通じて出会った大切でクールな仲間たち。サーフィンがすべてをつなげてくれて、これなしの生活なんて考えられない。
あなたの生活に欠かせない3つのものは?
サーフィン、家族、美味しい食べ物!
20歳の頃の自分に、何かアドバイスをするとしたら?
30歳になった今、これまでの自分を振り返ると、特に計画を立てずに思うままに生きてきた。でも、その中にはいつも明確な意図があった。そして気づけば、欲しいものや住みたい場所、理想のライフスタイルが自然と実現していた。「何かやりたい!」と情熱が湧いたときこそ、そのエネルギーに従うのが一番だと思う。
text:Miki Takatori
20代前半でサーフィンに出合い、オーストラリアに移住。世界中のサーフタウンを旅し現在はバリをベースに1日の大半を海で過ごしながら翻訳、ライター、クリエイターとして多岐にわたって活動中。Instagram
TAG #Ocean People#クリスティン・エレナ・クラーク#バリサーフィン#ビーチライフ#連載
海が似合う“素敵なあの人”が偏愛する、モノやコトを紹介するこの企画。今回は様々な場所で暮らした経験を持つモデル・インスタグラマーのAmiさんが、最終的に移住したハワイでの暮らしをご紹介。
Profile
Ami Angel
千葉県出身、現在はハワイ・オアフ島在住。日本とペルーにルーツを持ち、モデルやインフルエンサーとして活躍中。また自身のファッションブランド『Sunkissed Sunflower』も手がける。
「行ったことがない場所に行くとすごくワクワクして、胸が躍るんです。ひとりで色々な場所を訪れましたが、いちばん居心地が良かったのがハワイでした」と話すのは、昨年ハワイ移住を叶えたAmi Angelさん。
23歳のときにロサンゼルスで1年半を過ごしたあと、サンディエゴ、ニューヨークと移り住み、ハワイ・オアフ島に辿り着いた。
「小さい頃から海に連れて行ってもらっていたせいか、海が大好きで。旅先もあたたかい場所を選びがちです(笑)。ハワイは旅行で何度も来ていたけれど本当に大好きで、住みたいなって思って移住を決めました。
特にサンセットの色が毎日違うのが大好き。ここ、違うプラネット? って思うくらいきれい。お気に入りは、以前ステイしていたことがある、カイムキの坂の上から眺めるサンセット。空全体がピンクとパープルのグラデーションに染まった中に、少しだけ灯りがついたワイキキの街並みが見渡せて。奥にはダイヤモンドヘッドとブルーの海が見えるの! もう、とろけちゃいそうな美しさです」
「ずっと海まで歩いて行ける距離に住むのが夢だったので、今はとっても幸せ。サーフィンはワイキキで、ロングボードでマイペースに楽しむのが好き。ちなみに最近ワイキキの端に穴場のビーチを見つけたので、そこでただ横になったり、シュノーケルをしたり、友達とお話をしたりするのがお気に入り。ビーチで編みものをするのもハマっているんです」
海が好きだからこそ、やはり環境のことも気になるAmiさん。彼女自身海に入るときは環境に負担がかからないよう、日焼け止めは塗らないのだとか。
「ケミカルな日焼け止めを塗って海に入る観光客の方が多いのですが、それがサンゴへ悪影響を与え、海の色まで変わってきているんです。私は自分の周りから変えられたらと思い、オーガニックな製品を使ったり、なければ塗らずに入ることもあります」
ビーチで過ごすだけでなく、ハイクへ行く機会も多いという。
「年末に友人と岩山に登ったんですが、頂上で友達がファイアーパフォーマンスをしてくれて。すごくクールで、幻想的でした。その日がちょうど満月の日だったので、2024年に嫌だったことや手放したいことをみんなで紙に書いて燃やしたんです。
そのあとは2025年にやりたいことをジャーナリングしたり、メディテーションをしたんですが、なんだか感極まって泣いてしまって……。そういうイベントごとをハイクや自然の中でできるのも、ハワイに住んでいる醍醐味だなって感じます」
「今年の目標は、『心のままに』。自分の気持ちに従って行動することが大事だなって思うから。行きたい場所に行って、会いたい人に会って、やりたいことを実行する。移住って、不安や心配なことも多いです。でも絶対になんとかなるって、自分を信じること。もしやりたいことで迷っている人がいたら、そう言葉をかけてあげたいです」。
text _ Miri Nobemoto
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